臭いものには蓋をすればいい…ものでもない。

防臭弁

「臭いものに蓋」ということわざがある。江戸いろはかるたの一つ。

これは「根本的な解決を図らずに、一時しのぎの手段で他人にしられないようにする」という意味で、批判的な表現につかう。

一旦は収まるかもしれませんが、あとにまわすことで結局は大きな失敗につながる。

その場しのぎとか、口先でなんとかごまかしたり、そういうのはやはり良くない。

でもまぁ、そういう正論は誰にだって言えるわけで、かっちょいいことを書くほどの人間ではないのですよ。

言い訳したりとか、自分をごまかしたりとかして、炭水化物を食べたり禁煙を中断したりするわけです。

先月風邪を引いてしまったので筋トレも中断してしまっております。やらないといけませんね。

それにしてもコロナウイルスの感染が止まりませんね。

ヨーロッパやアメリカでも外出禁止とか移動禁止とか、ほとんど戒厳令下のようなことになっております。

 

日本は収まったというか、もう終わりそうな感じがあるんですけれども、なんとなく第二波というか、もう一発感染者の増加があったりするんではないかと思っていたりします。

特に、都心部、下関みたいな田舎はそう関係ないかもしれないのですが、人口が何百万人もいるような都市は危ないかもしれないとか考えたりしています。

杞憂に終わればいいんですよ、杞憂で「まぁ心配するほどのことじゃなかったねー」って終わるのが一番いいんでしょうね。

 

終わってみないとわからない

初めて経験すること、例えば初めて外国旅行をして、地図もない言葉もわからない、自分の現在地も不確かで、方位もよくわからないし、目的地もどんくらい離れているのかわからない。

そういう状況の中で、リーダー(この人もよくわかっていない)が「あっちだ、いっやこっちだ」とか言うわけですけど、従っても大丈夫かどうかわからないわけですよ。

一応リーダーの曾祖父さんが一〇〇年前にこの町に来たことがあるってことで、その知識を元に判断しているわけなんですが、

その知識古すぎるんじゃない?

ということで、あまり頼りにならないのは、誰がやってもいっしょなのかなという気がします。

自分が下した判断に都合の悪い物証が出てきたとして、くさいものに蓋ではないですが、「見なかったことにしよう」「なかったことにしよう」というのは一番まずい悪手だと思います。

事実に向き合う、その時その問、最善を尽くす。

自分でよく考えて行動するしかないのだなと、そういうことを思うのです。

春分の日

今日は春分の日ですが、弊社は祝日も午前中は営業しており当番社員が二名ほど出社しています。

世間では三連休の一日目という方も多いと思います。

現場作業を祝日に行うお客様はけっこう多いです。

半日だけでしかも配達なしで店頭渡しのサービスなんですが、それなりに売上もあります。

世間はコロナショックで大変なのですが、いまのところ現場は通常通り動いています。

しかーし!

TOTOのウォシュレットが納期未定になるなどで、着工予定が伸びる現場もちらほら見えてきました。

いまのところいつまでに通常通りになります、とは言えない状態なので、4月からは仕事が止まる、売上が減少するというリスクが高まってきました。

資金繰り、資金計画しっかり書き出して早めに対応しておかないといけませんね。

イタリアはコロナウイルスのせいで町中から人の姿が消えているようですが、一刻も早くこの状況が終わってほしいです。

 

「配達」とはなにか?

金子商会のメインの仕事はなにか?

ということを考えるとやはり「配達」がメインであることは間違いないと思う。

現場で工事をしている工務店の職人さんから電話で

「プッシュマスターの継手、オスアダの13を8個とメスアダを4個、それから~・・・」

というような注文があったら、すぐに現場まで配達するわけです。

 

「配達」を辞書で引いてみますと。

郵便物や商品などを指定された宛先へ届けること。

となっています。

「配」という文字には

必要なところにわりあてて供給する。配る

ならぶ。つりあう。対になる。

という意味が。

「達」という文字には

とおる。道が通じる。なしとげる。果たす。とどく。とどける。すぐれる。物事によく通じる。たっし。命令。通知。

などの意味があります。

つまり「配達」は

必要なところに必要なタイミングで「もの」を届けるということですな。

また「配達」を英語でいうと「Delivery」になります。

語源を調べてみますと、

ラテン語 de-(離れて)+libero(解放する)→liber(自由な;放たれた)→louberos(子供)→hlewdh-(人々)が語源。「手元にあるものを放つこと」がこの単語のコアの意味。liberty(自由)と同じ語源をもつ。

ということですな。

デリバリーによく似た言葉でケータリングというのもあります。

catering とは、お客様の指定する元に出向いて食事を配膳、提供するサービスのことで、caterは、料理を調達する、賄う、提供するという意味があります。

デリバリーとはちょっと違いますね。

「配達」の「達」は「達人」の「達」

やはり仕事として「配達」をやるからには「達人」を目指したいものですね。

 

結婚と子育てと働くこと

結婚するかしないかは、個人の自由であるし社員が独身だろうが同棲していようが同性愛者だろうが、働く上ではあまり関係ないです。

ただ子育てっていうと違う。

やはり働くこととの優先順位をどちらに重きを置くのかということです。

昭和の時代は男が会社で働いて女性が子育てと家事を担当するというモデルが一般的だったように思います。

お互いに依存しているという関係で、どうもここ最近はそのような働き方がうまくいってないような印象があります。

結果としての少子化であり原因としても少子化であると、どんどん人口が減っていくし、平均年齢は高くなっていくし、賃金は安くなっていくし、どうするんだよ?というところでしょうな。

働き方改革で働くというのが時給換算ではなく、生み出す価値とか、付加価値そのものの質や量が大事であって、時間を拘束されるから賃金をもらうという、ったっだそれだけのことではあまり稼げない時代になってきたということのようです。

子育ては結果を評価するとか、そういうものではないのかもしれない。

どれだけ時間を投入できるのか、その投入先が育児なのかそれとも仕事なのかということですが、通勤時間であるとか会議であるとか、どう考えても生産性の高くなさそうな事柄に時間を投入するのははばかられるように思います。

なんだかんだで幼少期から中学校を卒業するまでは親である自分は、優先順位の高いのはどちらかといえば育児の方だったような気がします。

思い出して見るに、

自分の今はなき父親(昭和10年生まれ)は、本当に家事をしていなかったような気がします。

洗濯や洗濯物を干したり畳んだり、トイレ掃除をしたりお風呂の浴槽掃除したり、布団を干したり、料理を作ったり、食後の食器を片付けたりは、全くしてませんでした。

うちの母はよく文句をいわなかったなと思うのですが、まぁそういうことが社会的に許されていたところもあったのかなと思います。

もし今、そのころの父と同じようなことをする人がいたらちょっと引かれるのではないかと思います。

とりあえず家事は一通りできるようにしておいたほうがいいですね。

 

応急処置

応急処置

写真は配管から水漏れしたときの応急処置をするための部材です。

大成機工さんのフクロジョイントという部材になります。

災害のときとや給水管の老朽化のときに水の流れを止めることなく漏水補修します。

あれば便利ですけど、なければ修繕箇所の手前から断水して新品の配管にするなどして対処します。

いずれにしても応急処置なので後日配管を新しいものに引き換える必要があります。

何かあったときのために準備していおく、備蓄しておくというのは、何も起きていないときには無駄なように見えます。

例えば、何年間一度も出動していない消防車、一大購入するのに6000万円でした。そろそろ買い換える時期になりました。

一度も利用しなかったのだから、新しく買う必要がない?

そんなことはありません。

火事は必ずおきるのですからやっぱり必要です。

災害は必ず起きる。

今まで災害にあわなかったのは運が良かっただけ。

消防車はやはり必要なのです。

 

 

とはいえ、コスト削減しないと日常業務で注文がもらえなかったり、なんてこともあります。

本当に世の中に必要なサービスであったり商品であるなら、そこまでのコストをかぶせた価格設定をしておくのが本当に誠意のある姿勢なのかもしれません。

まずは税制を改正してほしいですね。

資金の内部留保をしても税金がかからないようにしたらいいのかも。

まぁ、そんなことより内部留保できるくらいしっかり稼がないといけないのですが。

映画「パラサイト」を見ました。

アジア映画初のアカデミー賞を取った映画パラサイトを見に行きました。

監督はポン・ジュノさん。

ポン・ジュノさんの作品で見たことがあるのは

「殺人の追憶」「グエムル」「スノーピアサー」「オクジャ」の四本。

なので今回のパラサイトは5本目ということになる。

ポン・ジュノさんの「母なる証明」はウォッチリストには入っているのだけれどもまだ見ていません。けっこう面白そうなので順番が来たら見る予定です。

これまでに見た映画の共通点を無理やり結びつけてしまう形になってしまうかもしれませんが、

「底辺」「どん底」「低層」という言葉。

上と下があれば下、しかも最も低いところに流れる「よどみ」に思考の焦点が当たります。

用水路であったり、排水溝や、階層社会の縮図とも言える列車の下層車両、あるいは屠殺場などが描かれている。

重なっても交わることがない断絶があると、で、それはもうそういうものとして受け入れるしかないのだという、諦めに似た気持ちに気がついてしまうのです。

「お互いにわかり会えない」ということを受け入れるのは難しいです。

「同じ人間なのだから話せばわかるはず」と人は考えるからこそ、うまくやっていけると信じられるのだけれども、

本当のところはどうしたってわかり会えない人間関係だってあって、それが民族とか血縁とか人種ではなく、個人個人の違いや性質に収斂してしまう。

収斂した個人がひとかたまりの群となって、ますます分断されるような世の中になってしまうのかなと思ったり。

なにかもっといい人と人の繋がり方っていうものがあるのだろうなと思うのですが。

折り合いをつけるということが必要ではない世の中をはたして求めていいものなのか、そういうことを考えたりします。

錯覚

遠くのものが小さく見えるのはなぜなんだろう?

そういうことを考えることがあって、それは眼球でものを見るという仕組みのせいだということを知った。

直進する光を目の水晶体が屈折させて網膜に当てることによって自分は世界を見ている。

屈折させて小さなスクリーンに投射するから遠くのものは小さく近くにあるものは大きく歪んだ形で像を結ぶ。

つまり錯覚した形で常に世界を認識している。

そのことに初めて気がついたときに、自分は世界を本当にありのままに認識することはできないのだなと思った。

「宇宙空間は無重力状態」というのも間違った認識だ。

映画や漫画で宇宙空間を描くとき、無重力状態の演出がある。

重力に引かれて自然落下しているだけであって本当の意味で「重力がない」わけではない。

人工衛星は時速3万キロで地球の周りに沿って落ちている。

落ち続けているから、その中にいる人は中に浮いているように見える、重力がないように見える。

宇宙船は地球から月へ向かうときも、地球や月や太陽や、そして遠くの銀河の重力の影響を常に受けている。

地球からイスカンダルへ向かう宇宙戦艦ヤマトは、常に地球の重力やイスカンダルの重力の影響を受けている。

あまりに遠すぎるので遠くの星の重力を感じることはできないけれど、自分の肉体は常にいろいろな天体の重力の影響下にあるのだ。

「重力は常にある」そういうふうに認識が変わる。

人間の五感は眼球とか鼓膜とか味覚とか、光学的だったり音響学的だったり化学的だったり、そういうなにか物理的な変換によって認知するようにできている。

そしてその認知は結局のところすべてが錯覚でしかない。

それじゃあ錯覚とはなんなのだろう?

そう考えると言葉の意味も変わってくる。

「それはキミの錯覚だよ」

そういうふうに言われることがある。

けれどもそういっている相手の認識も実は錯覚でしかない。

錯覚をつかってしかいろいろなことを認知することしかできないのだ。

それを認めて世の中をもう一度見回してみると、けっこう違ういろいろな受け止め方が自分の中に産まれてくる。

 

読書メモ





先月読んだ本とか聞いたオーディブルとかです。

30代の頃は松下幸之助さんの本を読んだり戦後のいろいろな成功譚を聞くたびに「そういうなにもない時代と違って平成はなにもかもあるからなぁ」なんて斜に構えていたりしていました。

けれどもそうではないのだな、コロナショックや株価の暴落や社会のいろいろな変化に立ち会うにつれて、チャンスはいつの時代にも転がっているのだと思えるようになってきました。

とはいえ逆風といえば逆風ですが、無風状態よりもおもしろいのではないかと思ったりもしています。

戦後の混乱期に生まれた企業が大きく育ったように、今この時期だからこそ変われる気がするのです。

ジュラ紀の哺乳類のように弱々しく小さな動物がその後の環境変化を生き残ることができたように、大きな環境の変化が起きるときは身体が小さいというのはやはりメリットだと思います。

85歳まで現役でいようと考えるなら、残り30年以上もあります。

20代でビジネスを初めて50代で一山当てる、そういうふうに考えるとなんとなくワクワクしてくるのですよ。

もう一度いろいろなことにチャレンジすることができる、そんなことを考える週末の土曜日なのでした。

 

 

 

 

パンデミックな映画

ブログの更新 八日目です。
八日目の蝉という映画がありましたね。

それはそれとして先日「ラスト・デイズ」といフランス映画を見ました。

建物の外に出ると死んでしまうという正体不明の奇病が蔓延して、文明は崩壊。

なぜか生まれた子どもたちは病気になってなくてよかったねという、ストーリーなんですけれども。

今こそ世界ではパンデミックで大騒ぎなんですけれども、ここまで大騒ぎになってしまうのは映画やテレビ番組の影響もあるのかなと思います。

今まで見たことのあるパンデミック系の映画



けっこうたくさんあります。

今回のコロナウイルスは映画に出てき人類が滅亡してしまうような毒性はないのですが、経済的にはかなりきついところがありますね。

 

早いところ収まってほしいものです。

寄り添うツイッターを読みました。

いろいろ考えるところがあって、会社のツイッターアカウントをなんとかせねばならんなぁと思いついたときにちょうどタイミングよくキングジム公式さんの書籍が発売されていたのでキンドルで即購入したのです。

タイトルは「寄り添うツイッター

キングジムの社長さんはキングジム公式アカウントさんよりも先に個人アカウントで◯◯についてコミュニケーションしていたとか、最初に社長にツイッターをしろと言われたときの気持ちとか書かれています。

弊社を含め業務命令などでツイッターアカウントを登録したものの使い方がわからずに放置していた、そういう中の人も多いと思います。

「企業アカウントはこんなふうに運用するといいのでは?」というキングジムさんの経験からくる言葉がいくつも書かれており、自分も参考にして取り合えずフォロワー100人を目指して気長に運用していこうと思いました。

とりあえず100日連続で毎日ツイッターを投稿することがひとまずの目標です。

 

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