鬼滅の刃

明日まで休暇ということで、「鬼滅の刃・全26話」見終わりました。

なんというか、努力をしてきたんだから俺は挫けないという気持ちを常に持っている主人公の炭治郎くんが熱いですね。

なんというか「もうダメかもわからんね」とか「あーこれもう死ぬ」とういとき根性とか気合でなんとかなる!というためにはそれを裏打ちするような死ぬほどの鍛錬があってこそなのだなと、そういうことを教わりますよ。

炭治郎くんはもともと剣術の才能のようなものがあり、アニメを見た感じではお父さんも鬼滅隊にゆかりのあるお人のようなのです。(原作は読んでません)

アニメは原作のどのくらいの分量なのかよくわからないのですが、先日原作漫画の方は無事に最終回を迎えたらしく、こりゃ全巻買って読みたいなという気持ちになっているのですが、近所のCoCo壱番屋に全巻揃っていたので、昼食時に読みすすめてみようと考えています。

ちなみにお気に入りのキャラは我妻善逸くんと、甘露寺蜜璃さん。

あと、ちょっと話題になった「鬼詰のオ刃」というパロディAVが秀逸だなと思いました。

フィクションなのかキャラを演じているだけなのか。

それは電車男であったり岸壁の母であったり一杯のかけそばであったり。虚構と現実の狭間の面白さというのが確かにあって、それを眺めている第三者には一種のエンターテイメントだったりする。

ある婚活アカウントのツイートがいわゆるフィクションだったことで、ちょっとがっかりしてしまった。(フォローやめました)

個人的には中の人が女性ではなくおっさんでないことだけは避けてもらいたいところである。

なりすましであるとかネカマであるとか、疑い始めたらきりがない。

今、こうしてこのブログを書いているのが下関在住の53歳のおっさんであるかどうかは、確かめようがないのだ。

もしかしたら16歳の女子高生かもしれませんのことよ♡

とりあえず世の中には実在しない人物がいる。

藤子不二雄先生とかゆでたまご先生のように二人で一人の人格を持っている方もいらっしゃるし、プリキュアの原作者であるとこの東堂いづみさんは、実はユニット名みたいないわゆる法人だったりするのも、初めて知ったときは驚いた。

じゃあなにかい?武内直子先生ももしかすると実存していないのか?なんてふうに思ってしまったりしたのである。

 

今回の騒動で、ある意味やりようによってはコンテンツのあり方も変わってくるのかもしれないな、と思った。

つまり、架空のキャラクターの体で、毎日投稿をすることで、小説の原作として成立する可能性が出てきた。

今までもツイッターの投稿をまとめた書籍がいくつも発売されているのだけれども、前提条件として最初から架空のキャラクターとしてツイートをコンテンツとして投稿しそれを書籍にするパターンが、出てくるかもしれない。ということが。

うーん、これだとちょっとわかりにくいか。

例えば、企業垢の中の人はおっさんでありながらも架空の女性キャラとしてツイッターで日々発信するわけですよ。

で、その発言が非常に女性の共感を得られつつ、非実在人物でありながらも、投稿が非常に文学的であり、ひとまとまりにしたものの品質が相当に高く、ファンがファンを生み一種のコミュニティーを作り出してしまうわけです。

そうなるともはや広告とコンテンツとPRとお知らせと、そういういわゆる文章の内容が受け手にとってどうだったのか?が分かれ目になるだけで、それらの区別はもはやつかない、というか、区別する意味が果たしてあるのか?というところまでいくのではないかしら。

情報発信するときに大切なことは「嘘をつかない」ということは当然ではあるのだけれども、それは信頼を毀損しないためということだ。

信頼するということは、人が世の中で関係をお互いが持つときに、一番コストのかからない方法だからなのだと思う。

みながコミュニティで関係性を保つために信頼関係を大切にしているときに、「嘘を付く人」が一人でもいると、コミュニティ全体がひどい影響を受けてしまう。

「嘘を付く」「隠し事をする」というのは信頼関係を毀損してしまうのだ。

けれども最初からバレている嘘は、そう悲劇にもならない。

ジョー・ブラッドレーはアーニャの素性を知っていて嘘に付き合っていたからこそ、そんな悲劇にはならなかった。

スクヒとジョンスの悲劇はお互いに隠し事をしていたから起こったのだということですよ。

グレーゾーンを楽しむためには、嘘を嘘として、フィクションをコンテンツとして楽しむことができるという、ある意味「信頼を毀損しない」ギリギリのラインを守ることで、よりコミュニティの繋がりが強くなるという、そういう「文学」として楽しめるのではないかと思うのです。

プロフィールであるとか出来事であるとか、そこに嘘があると、いつかは必ずバレてしまうのだなぁと思うのですよ。

でも、嘘をついたとしてもそれが嘘であることがちゃんと相手に伝わっているならば、それはかなり高度のコミュニケーションの裏付けであり、

「そういう嘘はアリ」

という、ロープに振られたらちゃんと技を受ける、あるいはカウント2.9でキッチリ起き上がるという「それは嘘ではなんだよ」という、つまりは

「プロレスは真剣勝負なんだ!」ということや

「笑点に台本はない!」という

そういう時代に情報発信がやっと追いついて来ているとうことなのかもしれない。

ミスミソウ

2018年4月の映画です。

主演は山田杏奈さん。

どっかで見たことあるなーって思ってたら。

2019年に公開された「小さな恋のうた」でもヒロイン役でした。

いい女優さんだと思います。

殺意とか優しさとか、目がいいです。

あらすじは、いじめられている女の子いて、

両親が家に火をつけられて焼き殺され、妹も全身やけどの重体。

で女の子が復讐するという、けっこうスプラッターなお話です。

 

田舎の閉塞感とか、未来のなさとか、人生の諦め感とか、雪景色はとてもきれいなのですが、そういう村の雰囲気が漂っているわけですよ。

働くところも遊ぶところもない、小さな町というのは、それはもう日本中にあるわけです。

例えば、自分が住んでいる下関市なんかも、人口は減少しているし、老人は増えているし、子どもは減っているし、大きな工場が撤退して失業者が多量に吐き出されたりしているわけですよ。

住んでいる人は「町」だとは思っているのですが、田んぼや畑がつづく風景を眺めていると、こりゃ村だよねぇとか考えてしまうわけです。

村八分とかムラ社会とかいう言葉があるように「ムラ」というのはあまりいいイメージがありません。

なんというか「産業がない」。それが「村」であるということなのかなぁと思います。

「町に憧れる」というように、田舎町に住んでいる自分が高校生だった頃は、東京とか福岡とか都会にはやっぱり憧れているわけですよ。

「このまちに住んでいても将来なんもねーな」

そういう閉塞感があると、人間、攻撃的になってイジメをしたりネチネチとした人間関係を継続してしまうのかもしれません。

映画の登場人物で「いじめる方」の生徒たちも、それぞれ家庭環境に問題があるようで「弱いものたちが夕暮れ、さらに弱いものをたたく」が実践されている味付けであります。

世の中は、夢に向かっているときは、そう悪くない場所に思えるのだけれど、向かう場所が絶望的に悲劇的な場所であるなら、または、そういうふうにしか思えないなら、世界というのは、ほんとうに酷いだけにしか感じられないわけですよ。

人の醜いところに向かう光は、暗い影しか見えないわけで、なんだろう、もっと楽しそうに生きる方法はなかったのかね。と思うわけです。

あとイジメとかあるときは、子どもは大人の犠牲者なんだなぁとか考えました。

 

「デトロイト」のころと今


映画「デトロイト」をアマプラで見ました。

1967年が舞台の映画なんですけれども、半世紀を過ぎてもまだまだ変わっていないのだろうなと、そういうことを感じさせる事件が今現在進行形でおきています。

社会や制度が変わるのには長い時間が必要なんだなと思います。

ただ、今回は暴動とかあっても、なんというかいろいろなことが可視化されて、今までとは違う状況を生み出すようなそんな気もします。

映画「デトロイト」では警察官は無罪になっているのですが、今回は無罪ではないっぽい感じですし、なにしろ映像とかそのときの状況が世界に配信されたりと、50年前とは違う展開を見せています。

例えば、今回映画「デトロイト」のような状況が起きたとして、モーテルにいた人たちがみなスマホを持っていて、現場中継していたとしたら、違う結果になっていたと思います。

「グラン・トリノ」「グリーン・ブック」「ミシシッピ・バーニング」など人種差別をテーマにした映画は多いです。

どの映画の舞台にもスマホはもちろんSNSは存在していません。

最近はSNSの描写を劇中に取り入れる映画も増えてきました。

自分は映画というのは、時代の象徴を先取りする部分もあると思っています。

「ゲット・アウト」という映画があります。

この映画もテーマには人種差別があるのですが、キーアイテムとしてスマートホンとSNSが交わっています。

主人公はスマホがあったおかげで助かったとも言えると思います。

twitterが誕生したのは2006年。まだ15歳のサービスですから、いろいろ足りない部分もあるかもしれません。

それでも、世界は良くなっているんじゃないかなと感じたりもしています。

映画「デトロイト」を見終わったときの無力感ややるせなさが何ヶ月後にはなくなっているといいなと思います。

 

 

 

 

昭和の日

ええ、以前は「天皇誕生日」っていう名前だったんですよ。

で、しばらくの間は「みどりの日」っていう名前で、ちょっと前に「昭和の日」っていう名前に変わりました。

今年は水曜日だったので連休にならず、中途半端な感じになってしまって申し訳ありません。

祝日として恥ずかしいです。

GWの一日目として、役割を果たしきれていないなと思われていると思ってました。

ところがなんとなく雰囲気が違うような。

全国のお子様たちは、なんだか随分と長い休日で「今日が祝日だっていうことを忘れていた」なんて声も聞こえてきます。

5月の2日3日も営業予定だったりする企業さんもいるんですよね。

ゴールデンウィーク、長い企業では4月25日から5月6日とか10日までやるところもあると聞きます。

4月の25日が初日だとすると、4月29日の立場がまた危うくなる気がしないでもありません。

そもそも「昭和の日」ってなんなんでしょうか?「明治の日」とか「大正の日」とか「平成の日」とかないのに「昭和の日」だけ残す意味がいまいちわかりません。

祝日法の定義だと「激動の日々を経て、復興を遂げた昭和の時代を顧み、国の将来に思いをいたす」ための日だということです。

昭和がどういう時代だったのかしっかりと勉強して反省して、将来のことをしっかり考えましょうね、

そういう日にしなくてはいかんのです。

本とか読んでますか?まんが日本の歴史の近代史とか読むだけでもいいのではないでしょうか?

あと映画ですな。

やはり「この世界の片隅に」はいいのではないでしょうか?

そんでもって実写版の「夕凪の街 桜の国」も見るのはどうでしょう?

あとは大島渚の「少年」とかね。

大島渚さん、すごいっすよ。なんかもう難しいですけど。

いろいろと今見ると古いかもしれませんけど、昭和の日なので、そういうのもいいかなと思います。

 

犬鳴村

映画「犬鳴村」見に行きました。

お客さんは自分ともうひとりオッサンで、二人だけでした。

映画館は人数も少なく、お客さんはいませんでした。3つの密をちゃんと守れている感じ。

で犬鳴といえば犬鳴トンネルですよね。

今から30年くらい前、大学生だった頃犬鳴峠に一度行ったことがあったような記憶があります。

電話ボックスはあったような気がしますが、トンネルには結局行きませんでした。なんか洒落になんないからやめようということで、そのくらい福岡では有名な心霊スポットでした。

心霊現象とか、正体がわからない、なんだかわからないものはやっぱり怖いですよね。

で、映画の方は奥菜恵さんがいい味でした。

心霊映画といえば奥菜恵さんですね。

奥菜恵さんが出ているだけで怖い映画に違いないって思ってしまうくらいのアイコンなんだと思っています。

商売でもそのくらいのシンボル的な要素があると強いですよね。

「○○があるから間違いない」そういう強みがある商売はやっぱり強いと思いますよ。横展開もできるし。

感染防止ということで、映画どうしようかなーと思ったのですが、ネットの予約状況を見てみると、予約している人がいなかったので、大丈夫そうだなと思いました。

実際、お客さんいませんでしたし、なんというか、濃厚接触する要素はありませんでしたので、自粛しませんでした。

普通にコンビニとかスーパーで買物するのと同じかなと、むしろ映画館貸し切りだったので安全だと思いました。

とはいえ、この状態が二ヶ月三ヶ月と続くとなると流石に商売として成り立たなくなってしまいますよね。

緊急事態宣言が解除されるまでどのくらいかかるのかっていうとだいたい75日くらいはかかるのかなと思います。

武漢市の都市封鎖がそのくらいの長さでしたので。

ただ、日本はそこまで厳格に封鎖していないように見えるので、もっと長引くかもしれません。

メッチャ運がよかったら7月には解除になるかもしれないけど、なんとなく、もっとかかるんじゃないかなと考えています。

そうなると廃業や倒産が増える。政府はあんまり頼りにならない気がします。

今東京で起きていることが、下関のひと月後(もっと早いかも)の姿なのかも。

下関の映画館も営業休止するかもしれません。

 

 

 

 

ハッピー・デス・デイ

同じ日を何度も繰り返すという映画はけっこう多いですよね。

いわゆる「ループもの」と呼ばれるジャンルで、「時をかける少女」「打ち上げ花火、下から見るか横から見るか」「バタフライ・エフェクト」「オール・ユー・ニード・イズ・キル」「8ミニッツ」「リピーティッド」「トライアングル」「loop」

それはもうたくさんありますよ。

それだけ「あのときに戻れたらやり直したい」という感情は共感を生みやすいのだろうなと思います。

今回も、二ヶ月前に戻れたら株を全部売っていたのに、くはぁどうしよ~という方も多いのではないかと思ったりします。

でもまぁ、映画みたいにはなりません。

現実は、時間を巻き戻すことなんてできないのですよ。

そうはいっても、なんとかやり直したいなと思う。

せめてこれから先は、いい生き方をしたいなと思うのですよ。

 

この映画の中で、最初に主人公が目覚める部屋のドアに、あるメッセージが書かれています。

”Today is the first day of the rest of your life.”

今日は残された人生の最初の日。

 

100日後に死ぬ人にとっては、毎日が残された人生の最初の日なわけです。

一応ホラー映画ですけど、あまりこわくありません。

ホラーテイストのコメディだと思います。

面白かったです。

映画「パラサイト」を見ました。

アジア映画初のアカデミー賞を取った映画パラサイトを見に行きました。

監督はポン・ジュノさん。

ポン・ジュノさんの作品で見たことがあるのは

「殺人の追憶」「グエムル」「スノーピアサー」「オクジャ」の四本。

なので今回のパラサイトは5本目ということになる。

ポン・ジュノさんの「母なる証明」はウォッチリストには入っているのだけれどもまだ見ていません。けっこう面白そうなので順番が来たら見る予定です。

これまでに見た映画の共通点を無理やり結びつけてしまう形になってしまうかもしれませんが、

「底辺」「どん底」「低層」という言葉。

上と下があれば下、しかも最も低いところに流れる「よどみ」に思考の焦点が当たります。

用水路であったり、排水溝や、階層社会の縮図とも言える列車の下層車両、あるいは屠殺場などが描かれている。

重なっても交わることがない断絶があると、で、それはもうそういうものとして受け入れるしかないのだという、諦めに似た気持ちに気がついてしまうのです。

「お互いにわかり会えない」ということを受け入れるのは難しいです。

「同じ人間なのだから話せばわかるはず」と人は考えるからこそ、うまくやっていけると信じられるのだけれども、

本当のところはどうしたってわかり会えない人間関係だってあって、それが民族とか血縁とか人種ではなく、個人個人の違いや性質に収斂してしまう。

収斂した個人がひとかたまりの群となって、ますます分断されるような世の中になってしまうのかなと思ったり。

なにかもっといい人と人の繋がり方っていうものがあるのだろうなと思うのですが。

折り合いをつけるということが必要ではない世の中をはたして求めていいものなのか、そういうことを考えたりします。

パンデミックな映画

ブログの更新 八日目です。
八日目の蝉という映画がありましたね。

それはそれとして先日「ラスト・デイズ」といフランス映画を見ました。

建物の外に出ると死んでしまうという正体不明の奇病が蔓延して、文明は崩壊。

なぜか生まれた子どもたちは病気になってなくてよかったねという、ストーリーなんですけれども。

今こそ世界ではパンデミックで大騒ぎなんですけれども、ここまで大騒ぎになってしまうのは映画やテレビ番組の影響もあるのかなと思います。

今まで見たことのあるパンデミック系の映画



けっこうたくさんあります。

今回のコロナウイルスは映画に出てき人類が滅亡してしまうような毒性はないのですが、経済的にはかなりきついところがありますね。

 

早いところ収まってほしいものです。

ゴーストバスターズ 2016年版 


2016年度版のゴーストバスターズを見た。

ビル・マーレーの出ている元祖ゴーストバスターズは1984年の公開だったんですね。

自分はロードショーではなくテレビかビデオで見た記憶があります。

どうしても比較してしまいますね。

話の展開としては2016年版は1984年版の半分くらいのシナリオで、1984版未見の人はそっちを見たほうが面白いと思うかもしれません。

なんとなく、主役の女性陣に魅力を感じなかった。

なんでだろうか?

いわゆる美人タイプの主人公ではなく、なんというか普通のオバサンっぽいからなのだろうか?

キャラクターがよくわかんなかった。

シングルマザーとかLGBT的な要素はコメディだと入れにくいのかもしれない。

カメオ出演で前作の俳優さんが出ているので、そこが「おおぅ!」という感じだった。

最初20分くらいは面白いと思いました。

この映画の中で事務員を採用するために面接する場面があるのですが、

男性経営者が受付事務員を選ぶときに「見た目で選んで、中身はバカでも構わん」というような考えの人が多いので、その皮肉なのかもしれないと思ったりもした。

「お茶だけいれてりゃいい」とか「電話をつなぐだけ」とか「コピーをとるだけ」みたいな、女性事務員に対してそういう考えな男性マネージャーに対して、

「あんたの女性採用の基準と対して変わらんよ。」ということなんでしょうな。

採用面接するときに見た目で決めるというのは、そういうことなんかなと、

思った次第です。

あと、採用面接のときに経営理念とかそういうこと一切ないし、映画だから参考にならんですけど、時間も5分位で終わってたし、

採用面接に時間をかけない企業はまぁ似たようなものかもしれない。

ビジネスとしてやっていけそうもない感じがして、商売人としては、応援する気になれない。