東京卍リベンジャーズ

子どもに本ならなんでも買ってあげるつもりでいるのだが、東京卍リベンジャーズ発売中の23巻全部とかっていうのは、お父さんのお小遣いを圧迫しすぎなのでそれは許してほしい。
限度っていうものがあるじゃないの。

昨日の夕方にコロナのワクチン2回めを接種。

朝は平熱だったんだけれども、午後4時30分現在、37.5℃と微熱。
少し頭がぼーっとする感じ。
台風14号も接近してきて風の音が怖くなってきました。
今日は5時になったら速攻で帰宅しようと思います。

修学旅行

昨年に続いて今年も修学旅行が延期や中止になる学校もあるというニュースがちらほら。
自分は修学旅行の思い出っていうのは、あまりなくてどちらかと言うと集団行動が苦手だったような気がする。
中学校の京都へ行った思い出は、自由行動かなにかで一人で京都国立博物館に行って時間を潰したことくらいしか思い出せないし、高校生のときの思い出はディズニーランドで、これまた一人でアトラクションに並んだ思い出しかなく、集団で行ってる意味というのはほぼなかったという感想しか抱くことができない。
このあたり修学旅行が楽しみな人とそうでもない人の温度差なのかもしれない。
修学旅行が中止になってしまうのは残念だろうなーと思わなくもないのだけれども、人学年全員で移動したり宿泊したりすることの意味を大して見いだせないのだ。
だから中止になった学生さんたちには、中のいい友達とか、あるいは一人で卒業旅行とかすればいいじゃんと、無責任にオススメしたい。
高校を卒業したときは青春18きっぷというのがあり、それを利用して1週間ほど北陸まで一人旅をした。
山陰線を鈍行列車でえっちらおっちら旅行して岩手県の浄土が浜までいった。
ホテルや旅館も別に予約せず降りた駅の案内所で「部屋あいてますか?」みたいなかたちで宿泊するという、いきあたりばったりな旅路だった。

個人的には何十人もが同じ場所同じ時期に一緒に移動するタイプの旅行というのはもうそろそろなしでいいのではないかと思う。

修学旅行ももっと小型化してクラス範囲でも多いくらいなので、3~5人とか、ありは一人旅をするようなかたちで旅行するほうがよほど勉強になるのではないかと思う。

基本的に駅から駅までの移動であれば危険性も低いと思う。

今だったらインターネットで遠くの学校とも姉妹関係を結びやすいと思うので、例えばお互いの生徒を交換留学っぽくするとか、そういうのをしてもいいのではいか。

例えば東京の高校と下関の高校の生徒がZOOMで連絡を取り合ってお互いの家にあそびに行って、お互いの町を相互に案内したりするとか、一緒にいろいろな場所に見学するとか、そういうのもありなのではないか。

チケットの手配からなにから個人個人が自分で手配するのも経験にはなるし、なにも日本国内の学校に限った話ではなく、例えばオーストラリアにある姉妹校とかインドの兄弟校みたいなところと直接連絡を取り合って交換留学をもっとゆるいというかハードルを低くして行うのもいいかもしれないのではと思う。

「全校生徒が全員揃って集団行動するのがいいのだ!」

という昭和な価値観は必要なのだろうか?

それよりも時期をずらしながら少人数でそれぞれが生きたいところに自らが計画を立案して、旅するほうが楽しいと思う。

例えば、50代以上の人間で、
「一人旅をしたことがない」って言う人は「自分で旅行する、旅行を企画して旅する」という経験をしたことがなかったからなかなかできないだけであって、高校生のときに一人旅を経験させるほうがよほど自立心とか計画性とかを高める経験になるのではないかしら。

そんなわけで、この際修学旅行を「一人旅ベースに」するのもいいんでないかと思った。

馬関まつり

2015年馬関まつり

JCの後輩たちが頑張っているので協賛金でしか参加できませんけれども、去年に引き続き今年も中止ということですごく残念ですが協力できることは協力しますのでなにかあったら誘ってくださいね。

2015年馬関まつり

ちなみにこの写真は2015年の馬関まつりの様子。

小学生の子どもがいる家庭にとっては夏休み最後のイベントなのでなんだかんだ言っても連れていくことが多かったですな。

 

 

デジタルツインとかBIMと建設トレーサビリティ

 

 

 

フォトグラメトリとか、ドローンでBIMとか、なんだかんだで建設トレーサビリティとか、どんどん進んで行くようになるのだろうな。

いろいろと諸団体やらなんたら協議会やら立ち上がってきているようですな、このあたりのプログラムをイジれる人はまだ少数なのでやるならいましかない。

 

 

 

平方根とは有理化とか

高校生の頃は数学はさっぱりで全然理解できていなかった。
昨日の夜、娘にちょっと教えてほしいとか言われたんだけれども、問題の意味すらよくわかんない。というのが本当のところだ。
50年以上生きてきてるのだけれども、平方根を利用する様な世界には自分は生きていないのだなぁ改めて残念に思う。
でもまぁこの年令になってなんとなく数学の面白さみたいなことがわかるような気がして生きている。
YouTubeの数学の解説動画を見ると、わかるのだ。理解できるのだ、なるほどそうかぁ!という感覚が確かにある。
この歳になってやっとかよという気もするし、高校生のときに、頭の賢い人というのは、すでにこういう世界に生きていたのだなぁと感心するのである。

そしてあらためて思うのです。もっと数学をちゃんとやっておけばよかったなぁと、

 

 

井手上獏さんのこと normal is not colorful

本を読みましたよ。

ジェンダー問題については、これから経営者というか、コミュニティーを司ったりリーダーシップを必要とする立場にあるような人にとっては、OSのアップデートが一番必要なところだと考えています。

高度情報化社会になると血脈とか遺伝的な親子関係よりもバーチャル(仮想のという意味ではなく「実質上の」という本来の意味)による関係性がより強化されていくと思うのです。

そうなると父親とか母親などの人間関係が、これまでとは違った形で成立していくように思うのです。
人間関係が今と違う形になって信頼関係が組み立て方や組み合わせ方が変化してきて、育ての親が自分よりも年下になったり、育ての親が5人ぐらいいたり、戸籍上は女性のお父さんが二人いたりとか、とにかく
「あなた自身が一番幸せになるように」いちばんいい組み合わせを考えていくような世の中になっていくとは思います。
伝統的とか、生物学的に正当とか、宗教的にあれだという、なんかいろいろと価値観とか観念的なものが変わる次期なのかもなぁなんていうことを考えたり。

本に出てくる少年の主張全国大会
井手上さんは1:05:50のあたりで登場します。

60日間ワークブック


今日から新人さんが一人増えたので9日までの5日間研修をします。
午前9時から12時まで、お昼休みを挟んで午後1時から4時までの一日6時間
かける5日間で、合計30時間です。
研修が終わったらOJTで約3ヶ月の試用期間に入ります。
今回、御縁があっての入社なので期待しております。
というか、8月からの産休+育休に合わせての補充要員ですので、育休の人が戻ってくるまで、というか戻ってきてからも継続して出勤してほしいものです。

で、この原田さんの60日間ワークブックは新人研修だけではなく社員研修にもりようしたので、2007年に購入してから今まで16冊買ってます。

今でも普通に本屋さんで手に入るのでけっこう重版されているのではないだろうか。

ハウス・ジャック・ビルト(R18+)

ジャックという連続殺人鬼が自分がやってきた人殺しを告白するという体で話が進行していくのだが、これがもう、殺人鬼の認知のゆがみがすごいのですよ。

で、このジャックという男は、それなりに社会的には成功しているように見えます。

自称建築家で建築用の土地を持っていたり、自宅を建築したりしているのでそれなりの資産も持っていそうです。

死体を隠すための大きな冷蔵庫も持ってますし。

一時的にも家族ぐるみで交際するような女性(再婚しているのか、それとも拾の親子関係なのかはわかりません、なんとなく女性の連れ子のような演出ですがそのあたりははっきりとし描写はないかな)や別に恋人のような女性が犠牲者というか被害者として描かれるので、女性から見るともしかすると魅力的に見える側面があるのかもしれません。

魅力的に見える部分は映画のストーリーとしては語られていないのですが、人間としてどこかが壊れているキャラクターはいやだなぁと思います。

 

世の中にはサイコパスと分類される人がいて、その割合は結構高いそうです。

いわゆる反社会性人格障害者の割合は100人に一人くらいと言われています。

つまり案外、珍しくはないということです。

仕事をしていくうちに
「このお客さん、ちょっと妙だ」
「この取引先は、いつも無茶振りばかりだなぁ」
というときは、案外サイコパスな人なのかもしれません。

世の中にはお金を払わなくても平気な人もいますし、平気で嘘を付く人も案外多いのです。
あなたの想像を絶するようなことを平気ですることのできる、もしかしたらそれを喜んでやっている人間が近いところにいる、そう思って世の中を眺めているとけっこう警戒心が強くなってくるのです。

そして、ネットの時代だとツイッターアカウントの向こう側にいる人間が、案外そんなサイコパスだったりするのかもしれません。

自分と違う意見や考え方を表現しているそのアカウントが、もしかしたらスゲコワなサイコパスで逆恨み野郎だったらめっちゃ怖いじゃぁないですか。

そういうふうに考えているので、炎上していたり、ものすごい行きおいで正義を振り回し怒りをばらまいている人を見ると

「なんでこの人は自分だけが安全だって信じられるのだろう?」

と羨ましく思うのです。

 

私立高校の入試があった

今日は下関市の某私立高校の入学試験があった。

次女が受けたのである。
とりあえずはできたそうなのでよしとしよう。

下関市は地方都市なので、公立高校の方が偏差値が高く私立高校のほうが偏差値が低い。つまりは今日の試験はいわゆる滑り止めということになる。

公立高校の入学試験は来月3月9日。

残すところ35日。

模試の結果がギリギリのギリのラインなので必死こいて勉強しているが、いまだにエグザイルのキーホルダーを取ってこいだのイマイチ危機感というものがない。

あと義母が転んで顔の骨が折れたとかで、午後から妻が付添で動けなくなっていたりするので、ちょっとバタバタしているのである。

恵方巻買いに行かなきゃね。

少女邂逅

「少女邂逅」見ました。

地方独特の閉塞感というか失望感のような無力感のようなものに絶望しそうな少女たちの物語。

映画の中では少女漫画なんかにありがちな同級生とかとの恋愛の要素はほぼなく、途中少しだけ生物教師とのわずかな恋愛感情を匂わせるシーンがあるだけでした。

地方の学生にとって、「東京へ行く」というのは、一発逆転というか、閉塞感を打ち破る唯一の手段のようなところがあります。

地元に残ることは若者にとって変わらない退屈でつまらない絶望が平穏に続く日常といっしょに過ぎていくのです。

実際は地方には地方のいいところや変化や面白いところもあるのですが、情報ソースがテレビやラジオ雑誌などのマスメディアが主だったりすると、そういう魅力や情熱というのは、若い人たちには届かない、届きにくかったりします。

高校生にとっては、テレビとか雑誌とかネットメディアにしても、東京発信の情報がヒエラルキーの上部に位置しているのは、自分が高校生の頃とあまり変わっていないような気がします。

SNSにしたって影響力のあるインフルエンサーは東京周辺に在住しているし、グルメやらファッションについては都市圏の情報がメインになっているのだな。

50を過ぎた今になって思うんは

世界というのは自分の器と対になるものだから、自分のサイズが小さいと世界もちっぽけにしか見えないのだなということだ。

では、50過ぎた自分にとって世界はどの程度の大きさになったのか、ということですけれども、

確かに自分が高校生の頃に比べたら世界の広さというのはかなり広がったなと思うのですが、

そうはいっても自分自身はちっぽけな器の人間ですから、世界を股にかけて活動しているビジネスマンだとか、アーティストに比べると、ぜんぜんちっぽけなんですよ。

つまり知らない世界が多いというか、ほとんどのことを知らないし、知らない世界もぜんぜん狭い範囲でしから「知らない」と認識できない。

勉強したりそれなりに経験を重ねていくことで、世界がどんどん拡大していくわけで、その後悔は、

「もっと勉強しておけばよかったな」

「学生のうちに沢山本を読んでおけばよかった」

「若いうちにもっといろいろな経験をして、失敗しておくのも大切だったな」

というような感情として自分の中に溢れてくるわけですよ。

 

けれども、命を失ってしまうような失敗だとか、本当に取り返しのつかないような経験までを肯定してしまうのも間違いな気がします。

それはイジメだったり暴力だったり犯罪行為であるとかするのですが、結局はそういった経験は肯定すべきではないと思うし、謝罪や悔恨があったとしても、相手を許すのはまた別の問題なのだろうなとも思いました。

自分の中の憎しみであるとか辛さ、痛みと向きあうのは、結局は自分でしかないわけで、乗り越えることができるかどうかなんですよね。

 

最後、東京へ向かう列車の中にほかのお客さんがいない、

というのもなにか象徴的なものを感じました。

 

 

 

 

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