「言語哲学が始まる」と「人工頭脳入門シリーズ1-14」と「発達障害グレーゾーン」を続けて読んだ。というか併読した。
脳という機械がどのように世界を認識しているのか、認知とはなにか、判断とはなにか、そして心とはなにかみたいなことを考えるのだけれども、そのあたりの仕組はどうなっているのか、というのはまだ本当のところよくわかっていないそうなのだ。
そもその世界とはなにかとか、認識するとはなにか、認識とはなにか、「よくわかる」とは?そもそも「わかる」とはなんなのか?実際のところの定義や仕組みというのは、道半ばというのが、哲学の世界にしても社会学の世界にしても量子力学の世界にしてもよくわかっていない。
AIによって世界が変わるとかその影響が世界中あらゆるところに現れるのだ!というようなことが言われているのだけれど、人間が飯を食ってうんこして寝て起きてセックスして子作りするという、そういう原始的生物的営みはこれからもずっと続いていく。
そんな折、昨年から話題になっていた「出会って4光年で合体」を読んだ。
ポリコレとかそういうのを乗り越えたところに人間の本質があるのかもしれない。綺麗事のためには、汚いものや不気味なもの恐ろしいもの、愚かなもの、そいういうものも分け隔てなく有りするというか、存在を許すことが必要なのかもしれないとか思ったりする。
認知したものに対して自分の生命にとってそれは、プラスに働くものかマイナスに働くものか瞬時に判断してしまうのは、人の業であり、その業から逃れることが仏様の言ってる大切なこなのだ、いわゆる認知はしても反応すんなっていう話。
とはいうものの反応はしますよ。
怖いとか、好きとか嫌いとか、うへぇとか、言葉にならなくても「感じ」てしまうことは反応ですよね。
反応は個人個人が違うし、いわゆる性癖とか価値観というは、それぞれの脳の回路の作りの違いなんだからしょうがないのだと思う。
人の脳は差別するようにできてるのだから仕方ない。
当然差別するのはよくないけれども、だからって「差別する気持ち」「差別する反応」を消すことはできない。
差別とか区別とか違いとか、線引とか、仕分けとか、分類、判別、分岐、分離、選別、対比、分節、分解、分界、対立、分極化、双極化、両極化、棲み分け、判然、弁別、分岐、
AとBどっちにするかどっちを選ぶか、どちらかを選べばどちらかは選べないのだから、