俺が生まれたのは1967年。中学校を卒業したのは1982年の春だ。それから42年、気がつけば2024年。57歳になった俺は、SNSをぼちぼち利用している。友人たちの近況や、行きつけの店の情報が手軽に手に入るのは便利だと思う。ただ、同級生の中には、SNSなんて一切やらない人間も多い。
特に、Aについては何も知らない。中学校のころ、Aは典型的な不良だった。教室で授業中に居眠りするのは当たり前、時には煙草の匂いを漂わせながら登校してきて、先生に怒鳴られても全く意に介さない。口答えして教室を飛び出すのが日常だった。Aが家庭訪問されているのをよく目にしたし、「そのうち警察沙汰になるんじゃないか」と、俺たちも半ば呆れていた。
結局、Aは高校に進学しなかったと聞いている。その後どうなったのかは誰も知らない。同窓会の話題にも上らないし、SNSを通じて名前を検索しても何も出てこない。Aという名前の同姓同名は何人か見つかるが、どれも俺が知っているAではない。
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ある日、ふとしたきっかけで中学校時代のアルバムを引っ張り出した。そこには、ふてぶてしい表情で写るAの姿があった。少しやんちゃそうな笑みを浮かべ、首元には派手なアクセサリーをつけている。どこか他の生徒とは違う空気をまとっていた。
「あいつ、今どうしてるんだろうな……」
俺は呟いたが、答えが返ってくるわけではない。SNSの普及で、昔の友人や同僚と簡単に繋がれるようになった時代だが、Aのような人間はその輪に加わっていない。いや、そもそも「輪」という概念からはみ出していたのがAだった。
不良だった人間がどうやって人生を再出発するのか、俺には想像もつかない。もちろん、立ち直っている人もいるのだろう。だが、それはほんの一握りだと思う。多くの場合、若いころにあった差は、歳を重ねるごとにさらに広がっていく。中学卒業後、俺が進学して勉強し、就職して家庭を築いていく間、Aはどうしていたのだろう。何か夢を見つけたのか、それともただ流されるように生きてきたのか――知る由もない。
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最近、地元の駅前に新しくできたカフェでコーヒーを飲んでいたとき、店員の一人が妙に気になった。顔にどこか見覚えがあったのだ。年齢的には俺と同じくらいだろうか。くたびれた表情と少し猫背の姿勢が印象的だった。
「A……じゃないよな?」
心の中でそう呟きながら、しばらくその店員を観察していた。だが、声をかけることはできなかった。もしAだったとして、何を話せばいいのだろう。「元気だったか?」とか「今どうしてるんだ?」とか、そんな当たり障りのない言葉で何が変わるのだろう。
俺たちはもう57歳だ。人生を再出発するには遅すぎる。子どもの頃に抱えていた「環境」や「性格」や「運」の差は、今や大きな隔たりとなって俺たちの間に横たわっている。それを埋めることは、ほとんど不可能だろう。
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数日後、再びそのカフェを訪れた。あの店員の姿はもうなかった。俺は少しホッとしたような、物足りないような気持ちになった。あれがAだったのかどうか、結局わからないままだ。もしそうだったとしても、俺はたぶん何もできなかっただろう。
45年前に不良だったあいつは、俺にとって、もう過去の影でしかないのだ。SNSにもいないし、現実のどこにもいない。それでも、時々こうして思い出すのは、俺の中にある「過去の残像」だろう。
それが薄れていくのが、少し寂しい気もする。
ChatGPTに書かせてみた。