使い捨ての友達

エリカは窓辺に立ち、無機質な街並みを眺めていた。2053年の東京郊外、ドローンが行き交い、自動運転車が静かに通り過ぎる光景は、彼女の心象風景そのものだった。冷たく、効率的で、感情の入り込む余地などない。

「ゴンスケ…」

その名を口にした瞬間、胸に鋭い痛みが走る。昨日まで膝の上で温もりを分け合っていた猫が、今はもういない。エリカは唇を噛みしめ、感情の波を押し殺した。泣いたところで何も変わらない。それは無駄な感情の浪費でしかない。

「エリカ、大丈夫?」

AIエージェントのリリーの声が、静寂を破った。エリカは眉をひそめる。生まれた時からそばにいるリリーでさえ、今は煩わしく感じられた。

「ええ、問題ないわ」

エリカの声は、凍てついた湖面のように平坦で冷たかった。

「でも、悲しむのは自然なことよ。誰かに話してみるのはどう?」

リリーの提案に、エリカは苦い笑みを浮かべた。誰かに話す?冗談じゃない。クラスメイトなんて、所詮は偶然同じ時期に同じ学校に通っているだけの他人。卒業したら二度と会うこともないだろう。そんな関係に何の意味がある?

エリカは鏡に映る自分の姿を見つめた。14歳。中学生。しかし、その目は大人びていた。冷たく、何かを拒絶するような眼差し。それは自分を守るための鎧だった。

学校への道すがら、エリカは周囲の喧騒を遮断するように、イヤホンで音楽を流していた。クラスメイトたちの他愛もない会話が、ノイズのように彼女の周りを漂う。

「おはよう、エリカ」

ジュンコの声に、エリカは僅かに顔をしかめた。なぜこの子は毎朝声をかけてくるのだろう。意味のない社交辞令。エリカはそれを無視し、足早に教室へと向かった。

授業中、エリカの頭の中はゴンスケのことでいっぱいだった。しかし、その感情を表に出すことはなかった。感情を露わにすることは、弱さを晒すことに等しい。そんなことは、決してしたくなかった。

「エリカさん、この問題の解き方を説明してくれますか?」

教師の声に、エリカは冷静に応じた。感情に左右されることなく、論理的に問題を解説する。クラスメイトたちの視線が彼女に集まる。羨望と畏怖が入り混じったその眼差しを、エリカは無視した。

昼休み、エリカは一人で図書館に向かった。人々の喧騒から逃れ、本の世界に没頭する。それが彼女にとっての安息だった。

「邪魔しないわよ」

突然の声に、エリカは顔を上げた。美咲だった。エリカは無言で頷き、再び本に目を落とした。二人の間に会話はない。しかし、その沈黙は不思議と心地よかった。

放課後、エリカは急ぎ足で下校した。家に帰れば、ゴンスケのいない部屋が待っている。その現実から目を逸らすように、彼女はVRゴーグルを手に取った。

虹の橋が広がる幻想的な空間。ここなら、誰にも邪魔されずに、ゴンスケとの思い出に浸ることができる。

「ゴンスケ、元気にしてる?」

エリカの声は、虚空に溶けていく。返事はないが、どこかでゴンスケが聞いているような気がした。

「エリカ?」

振り返ると、そこにはジュンコの姿があった。エリカは一瞬、戸惑いを覚えた。なぜジュンコがここにいるのか。そして、なぜ自分は少し安心したのか。

「ねえ、エリカ。私たち…友達になれると思う?」

ジュンコの問いかけに、エリカは言葉を失った。友達?そんな関係、必要だろうか。でも、どこか心の奥底で、小さな希望が芽生えるのを感じた。

「…わからないわ」

エリカの言葉は、いつもより少し柔らかかった。

その夜、エリカは再びVR空間を訪れた。今度は見知らぬ少年が、虹の橋の上に立っていた。

「君も、大切な人を失ったの?」

少年の問いかけに、エリカは静かに頷いた。

「僕はタクヤ。犬のポチを見送りに来たんだ」

エリカは少年と言葉を交わし始めた。タクヤは、エリカが普段会う同年代の子供たちとは少し違っていた。物事を深く考え、感情を率直に表現する。エリカは、タクヤとの会話に心地よさを感じた。

「エリカ、君はどう思う?この世界と現実世界の違いについて」

タクヤの問いかけに、エリカは考え込んだ。

「現実世界では、人との距離感が難しいわ。でも、ここなら…適度な距離を保ちながら、心を通わせることができる」

「そうだね。僕もそう思う。ここは『共孤』の空間かもしれない」

「共孤?」

「うん。一人でいながら、誰かとつながっている感覚。孤独だけど、孤独じゃない」

エリカは、タクヤの言葉に深く共感した。そう、これこそが自分の求めていたものだったのかもしれない。

それからというもの、エリカは定期的にVR空間を訪れるようになった。時にはジュンコと、時にはタクヤと、そして時には全く知らない人と言葉を交わす。彼女は、この空間で「繋静」を感じていた。静かでありながら、確かなつながりがある。そんな不思議な感覚だった。

現実世界では、エリカは相変わらずクールな態度を崩さなかった。しかし、彼女の内面には少しずつ変化が生まれていた。クラスメイトたちを見る目にも、わずかな温かみが宿るようになっていた。

ある日、エリカは学校の屋上で一人、昼食を取っていた。すると、ドアが開く音がした。

「ここにいたのね」

声の主は、ジュンコだった。エリカは無言で、隣に座るスペースを作った。

「ねえ、エリカ。私、気づいたの。あなたが少しずつ変わってきていることに」

エリカは驚いて顔を上げた。自分が変わってきている?そんなはずはない。でも、本当にそうだろうか?

「私は…変わってないわ」

エリカの声は、いつもより少し弱々しかった。

「そうかもしれない。でも、あなたの目が、少し優しくなった気がする」

ジュンコの言葉に、エリカは言葉を失った。自分でも気づかないうちに、何かが変わり始めていたのかもしれない。

その夜、エリカは再びVR空間を訪れた。今日はタクヤがいた。

「やあ、エリカ」

「こんにちは、タクヤ」

二人は虹の橋の上に腰を下ろした。

「ねえ、タクヤ。私たちって、『使い捨ての友達』なのかな?」

タクヤは少し考えてから答えた。

「そうかもしれない。でも、それは悪いことじゃないと思う。人生のある瞬間に、お互いを必要としている。その瞬間を大切にできれば、それでいいんじゃないかな」

エリカはタクヤの言葉を噛みしめた。そうか、すべての関係が永遠である必要はない。今この瞬間を大切にすることが重要なんだ。

「ありがとう、タクヤ」

エリカは微笑んだ。タクヤも笑顔を返した。

その瞬間、エリカの心に小さな亀裂が入った。長年築き上げてきた冷たい殻に、温かな光が差し込んできたのだ。

エリカは虹の橋の上でタクヤと別れた後、VRゴーグルを外し、部屋の薄暗い天井を見つめた。心の中に何かが芽生え始めている気がした。けれど、それが何なのかはまだはっきりとはわからない。

「リリー、私は変わってきているのかな?」

エリカはAIエージェントに問いかけた。リリーは少し間を置いてから答えた。

「そうですね、エリカ。少しずつですが、周囲との関係性に対するあなたの見方が変化しているように感じます。それは悪いことではありませんよ。」

エリカは曖昧な返事を返しながら、ベッドに横たわった。変わること。それは彼女にとって恐怖でもあり、同時に新しい可能性への扉でもあった。

翌朝、学校へ向かう道すがら、エリカはふと立ち止まった。いつもならイヤホンで音楽を聴きながら周囲を遮断するところだが、その日は耳を空けてみた。聞こえてくるのはクラスメイトたちの笑い声や、自転車のチェーンが回る音。そして、風が木々を揺らす音だった。

「こんな音もあったんだ…」

つぶやいた自分に驚きながら、エリカは歩き出した。

教室に入ると、ジュンコがいつものように笑顔で手を振ってきた。エリカは小さく頷いて席についた。以前なら無視していただろう。でも今は、それが自然な反応のように感じられた。

授業中、エリカは窓の外を眺めながら考えていた。「使い捨ての友達」という言葉が頭をよぎる。その言葉にはどこか冷たさと虚しさがあるけれど、タクヤが言っていたように、それも悪いことではないのかもしれない。一瞬でもお互いを必要とし合える関係。それだけで十分なのかもしれない。

昼休み、美咲がまた図書館で隣に座ってきた。二人は無言のまま本を読み続けたが、その沈黙には奇妙な居心地の良さがあった。エリカはふと思った。この静かな時間も「繋静」と呼べるものなのだろうか、と。

放課後、ジュンコが声をかけてきた。

「ねえ、エリカ。今日、一緒に帰らない?」

一瞬迷ったものの、エリカは頷いた。二人で歩く帰り道。ジュンコは学校であった出来事や、自分の好きな映画の話を楽しそうに話していた。エリカはそれを聞き流すでもなく、かといって深く相槌を打つでもなく、ただ耳を傾けていた。

「ねえ、エリカってさ、本当にクールだよね。でも、その中にも優しさがある気がする。」

突然の言葉にエリカは足を止めた。

「優しさなんてないわ。ただ、人との距離感を保っているだけ。」

ジュンコは少し困ったような顔をした後、「それでもいいんじゃない?」と笑った。

「私もさ、人との距離感って難しいと思う。でも、距離があるからこそ見えるものもあるんじゃないかな。」

その言葉にエリカは少しだけ救われた気がした。

その夜、エリカは再びVR空間へと足を踏み入れた。虹の橋にはタクヤもジュンコもいなかった。ただ一人で橋の上に立ち、自分の影だけが足元に伸びている。

「孤独…だけど孤独じゃない。」

エリカはつぶやいた。この空間には誰もいないけれど、それでも確かなつながりを感じることができる。それは現実世界では得られない感覚だった。

「ゴンスケ…」

虹の向こう側にはゴンスケそっくりな猫の姿が見え隠れしていた。それを見るだけで胸が締め付けられるような痛みと同時に、不思議な安堵感も湧いてくる。

その時、不意に背後から声がした。

「また来てるんだね。」

振り返るとタクヤだった。彼もまた、一人でこの空間に来ていたようだ。

「君も?」

「うん。ポチには会えないけど、この場所には何か特別なものがある気がするんだ。」

二人は並んで橋の上に座り込んだ。タクヤは静かに語り始めた。

「僕ね、人との関係ってずっと難しいと思ってた。でも、この空間では不思議と素直になれる気がするんだ。」

エリカもうなずいた。この空間では現実世界とは違うルールで人と向き合える。それが彼女には心地よかった。

数日後、学校では文化祭の準備が始まった。普段なら関わり合いにならないクラスメイトたちとも協力し合う場面が増えた。その中でエリカも少しずつ自分から声をかけるようになっていた。

「それ、手伝おうか?」

自分でも驚くほど自然な言葉だった。同じ班になったジュンコや美咲とも息が合い、作業は順調に進んだ。

文化祭当日、教室では展示物や出し物で賑わっていた。ジュンコや美咲だけでなく、多くのクラスメイトたちと笑顔で話す自分に驚きを感じながらも、不思議とそれを受け入れている自分もいた。

その夜、自室で一息ついたエリカはVRゴーグルを手に取った。しかし、その日は虹の橋には行かなかった。ただ窓辺に座り、自分自身と向き合う時間を選んだ。

「ねえ、リリー。」

「はい、どうしましたか?」

「私は少しずつ変わっている。でも、それでいい気がする。」

リリーは穏やかな声で答えた。「それこそ成長というものです。そして、それでもあなた自身であることには変わりありません。」

翌日、学校への道すがらジュンコからメッセージが届いた。「今日放課後、一緒に映画観ない?」

エリカはスマートフォン越しに少し考え込んだ。そして短く返信した。「いいよ。」

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