ミスト

ネトフリのミストがあまりにも尻切れトンボだったので、口直しのために映画版のミストとその原作小説のミストを読みました。

映画版のミストは、短編小説の「霧」をすっごくいい感じに実写化しているなと、改めて思いました。

小説と映画ではエンディングが違うので、どちらがいいかという好みは分かれると思いますけれども、個人的には映画版の方が好きです。

ここ最近の世の中はこのミストの世界のように先が見えない。

コロナもいつになったら落ち着くのかわからないし、そもそも本当に落ち着くのかどうかもわからない、元通りにはならないのか、なるのか、だれも本当の答えはわからないです。

映画のようし霧が晴れてひとまずの踏ん切りがつくのかどうか。

現実の世の中では、特効薬ができて、入院患者数が少なくなって、海外旅行が普通にできるようになる、そういう世の中になるのかどうかってことですよ。

今の所海外旅行が2019年と同じ状態に戻る様子はちと見られません。
2024年の夏くらいには、渡航禁止が解除になるかどうかですし、解除になったからといって、すぐに旅行者が増えるか?と言われれば、すぐには増えないだろうなぁということは誰でも予想できると思います。

前のSARSとかMARSのときは、結局3年くらいかけて元の水準に戻ったんですけれども、今回は世界中に広がってしまっているので、もしかしたら、気軽に海外旅行ができるようになるまで下手すると10年ぐらい掛かってしまうかもしれません。

渡航制限が解かれたとしても例えば外国人に対する感染恐怖感があったり、人種の違いによる感染リスクヘイトがけっこう根強く残ってしまうような気がします。

そう考えてみるアジア系の自分がアフリカだとかヨーロッパに旅行するとなんとなく忌避されてしまうのだろうなと想定できるのです。

21世紀前半は、そういう忌避感を超えられない人間が世の中でまだ力を持っているのだとは思うのですが21世紀後半、つまりは2051年以降は、そういう忌避感を乗り越えて新しい旅人というか、コミュニケーション能力をもった、グローバルな活動をする人が、どんどん出てくるような気もします。

2051年っていうと、地盤は84歳ですよ。人生100年時代と言いますけれども85歳っていうたらやっぱり結構なお爺ちゃんなわけですな。

30年後がどういう感じの世界になっているのかっていわれたら、よくわかんないです、というのが本当の気持ちです。

ちなみにアメリカの同時多発テロ事件が起きたのは2001年。20年前のことですよ。54歳の自分にとって20年前というのは、けっこう最近の出来事のようにも感じられます。
「あっという間じゃんか!え?もう20年も?マジ?もうそんなになるの?」
みたいな気持ちです。このぶんだと30年というのは、今現在20代30代の人にとっては、世の中が変化したような変化していないような、長かったような短かったような、そんな感じなんかもしれません。
あの日テレビニュースに釘付けになって、
「これから先世界はどうなっちゃうんだ?」とものすごい不安というか、妙なワクワク感と「変わるに違いない」という信念のようなものが、世界のあちこちに溢れていたような気がします。
コロナ下にある今の世界も似たようなものかもしれません。

先が見えないからこそ、行動は早めにするのが、やっぱりいちばん正解なのかもしれませんね。

なんだよ!続きはないのかよ!許せない!

ネットフリックスのドラマ版「ザ・ミスト(シーズン1)」のことですよ。
2017年で1シーズンものだから完結しているのだろうと思って見始めたら、なんだよこの終わり方は!続編ないのかかよ!

中途半端な打ち切りしやがって、なんじゃこりゃー!

時間を返せと言いたい。

ハラタツから勝手に続編とか考えて二次創作小説を書いてやろうかとか思った。

とりあえずこの怒りをどこかにぶつけたかったので原作本を買って読むことにした。

打ち切りはほんとに良くないと思う。

打ち切りのリスト作っておこう。

あと終わりそうにないドラマのリストとか、

 

例えば、アベンジャーズシリーズで、「数字が悪かったからエンドゲーム作るのやめました」とかなったら納得できんでしょう。(自分は納得できないよ)

なんというか、5話くらいで、ちょっとムリかもってなったら、せめてそれなりに伏線は回収して終わらせましょうよ。

第10話の終わり方は投げやりすぎだろ。

せめて初期設定の脚本とかイメージボードとかないのかな。

母親の呪いの言葉は子供を不幸にするのだなぁ 「キャリー(2013)」

子どもがやっていることや考えていることは、けっこう親には理解できない。
毎日毎日、スマホを何時間も見ているとか、なんでもかんでも略して呼んだりされたりすると意味がわからなかったりしてイライラするなんてことも親にはあったりするのだ。

親である自分に理解できないことだったり、知らないことを子どもがやったり、やろうとしたりすると、頭から否定したり非難したりしてしまうのは、よくある話。
子どもになにか特別な才能があったとしても、それを親が認めていなかったり頭ごなしに否定していて、
「それは悪魔のしわざだ」
「お前は何を言っているんだ」
「お前はなんにもわかっていない!」
「お前は間違っている」
というような言葉を子どもに投げかけてばかりいると、なんというかその子の人生というのは、歪んでしまうのだろうなぁ、なんてことを思った。

マーガレットももしかしたら若い頃は超能力を持っていて
「お前は悪魔の子だ」みたいなことを言われていたのかもしれない。自宅で一人で出産をし、生まれたばかりの自分の赤ちゃんを刺し殺そうとするなんていうのはなんというか、あまりにも周りに愛のある大人の存在がなさすぎて、ものすごく悲しく思うのだ。
そしてその存在がなさすぎるからこそ、結局は赤ちゃんを殺すことをやめて、一緒に生きていこうとしたのかもしれないのだけれど。

けれども結局はマーガレットは精神的に問題を抱えたまま自傷行為を繰り返すちょっと問題のある親としてキャリーとの二人暮らしを選択せざるを得ないのだ。

けれども劇中には出てこないけれども、多分地域のソーシャルワーカー(日本で言うところの民生委員とか福祉士とかの力添えもあったりして、キャリーは高校に通うこともできるようになっている。

学校の教師の言動からもキャリーの家庭に問題があることも把握しているようだし、なによりもいじめに対して、明らかに「いじめるほうが悪い」「いじめたほうがペナルティーを受けるのは当然」というところがよいなぁとは思う。

とにかく「いじめたほうが絶対に悪い」というのは作品に置いては救いになっているような気がする。まぁそれでも逆恨みする人間は逆恨みするので、ペナルティーを与えればいいのか?っていうとそれはちょっと違うのではとも思う。

それは1976年版でも同じだったので(逆恨みしてもっとひどいことになるという部分も含めて)アメリカという国は「いじめ許さん」というのが徹底しているような気がした。

ただお母さんが能天気で娘の超能力に対しても
「キャリー素晴らしいわ!さすが私の愛する娘!
最高に才能があるし、あなたは何でもできるに決まってる!
その服も最高に似合ってる!プロムの女王に必ず選ばれるに違いない!」
みたいなポジティブかつ楽天的な性格だったら、ハッピーエンドになるのではないかしらとも思った。

あと、空っぽのバケツが頭にぶつかったて死ぬのはどうなんだろうと思った。
(オリジナル版は気を失うだけ)

 

8月号のネタを書き出していくメモ

デジタルツインとか2050年以降のネット環境は現実の人生観をどう変えてくのか。
人体の拡張や各種センサーのインプラント化によっての認知の変容がおきたり。

コレまで見えなかったこと聞こえなかったこと感じなかったとこの認知が進む。
紫外線を見ることができるとか、超音波が聞こえるようになるとか、地磁気を認識できるようになるとか。

人体感覚や触覚の外部化装置化プラグインというかプラグオンというか人類の認知拡張が低コストで爆発的に起きる。

意思疎通の仕方が変わっていくかもしれない

非言語野での情報交換を介さないコミュニケーションや情報・感情の表現の可能性について考える。

感情をダイレクトに共有することが果たして可能なのか、

ライフログをより一層高品質にすることで、追体験の質が変化していく。

光刺激による意思疎通

言葉の代わりにQRコードのような画像の点滅やパネルのようなマトリックスによって超高速高密度な意思疎通も行えるようになる一部の人間達。

人は「音(言葉)に置換した形」でしか表現や疎通を行うことに特化されている。

例えば、一枚の写真を見せて相手に「意思」を伝えることはできない。

画像では「相手に何をしてほしいのか」は伝わらない。文字にするか言語化しないと意思の疎通はできない。

 

文字というかいわゆる「言語」にしないと意思の伝達というのはできないのだけれど、例えばVR空間ピクセルのデザインで意思疎通を直接行うことだってできるようになるかもしれない。
生まれたときからQRコードのようなものを使って意思疎通を行えることができるように脳が対応していくかもしれない。

VRであるかどうかわからないけれども、ネットに繋がった状態で言語でなく何らかの電気シグナルで意思の疎通を行うことに抵抗のない脳神経の構成を持っている人のコミュニケーションのあり方というか。

 

PKディックの短編集でもそういう小説があった(タイトルは忘れてしまった)ような気がする。

自閉症(?)の人物が、ものすごく高速で世界を認知しているので、多くの人はその自閉症の人の認知している世界を理解できないみたいな、そういうお話だったような記憶がのこっている。

あと映画「コンサルタント」のジャスティーンという女性がいるのだけれども、彼女はネットを介してコミュニケーションをすることができるし、特殊な能力もあるという設定で。もしかしたらネット空間で非言語系のコミュニケーションをする能力があるとしたら、リアルでは、彼女のような人物になるのかもしれないとか考えてみたり。

例えば今朝あなたが見た夢は、自分自身にとっては言語を介さない表現ではなかったか?

「見た夢を思い出すことができる」ということは、同じ夢を他人と共有できると仮定したときに「言語を使わないで意思を伝達した」ことになるのではないか。

VRアバターが見た夢はそれは言語野を介さないコミュニケーションとして成り立つのではないだろうか。

デジタルツインの見た夢は新しい進化のシナリオの一歩目であるとは言えないか。

言語は人間だけに与えられたものなのか、言語があたえられたからこそ人間として進化したのか。

「言語が可能にしたもの」ではなく「言語を可能にしたもの」生物言語学とか
https://www.toyo.ac.jp/uploaded/attachment/20413.pdf

生まれたとき、あるいは生まれる前からインプラントなど電脳化によって攻殻機動隊のように電脳化だとと、頭脳が直接ネットワークされる未来に置いて、人の意思は言語を使わないで意思伝達を行えるようになるのか、人類の脳はそれに対応できるようになるのか、それは果たして可能なのか?

五十代で高校生の頃の恋愛を引きずるのはありなのか

ネトフリでの配信で見ました。
「25年間ずっと好きでした」というのは福山雅治だからゆるせるのであって、一般中年のオッサンが同じことしても多分気持ち悪がられると思っておいたほうがいいのではないかなと思った。

あと庵野さんと岩井さんは「式日」とかでもコンビニなっていて、仲がいいのだろうなーなんてことを想いながら見た。

自分ごとなんだけれども50をすぎると、高校生的な恋愛というか「告白を伴う関係性」とか「思いを伝えたいの」というような恋愛小説にありがちな「人をスキになる」というような映画を見てもあまりピンとこなかったりする。
青春映画の中で主人公が「君のことを一生愛することを誓います」「俺が死ぬまで君を守りたい」とかいうシーンを見ても、16・7の坊やがなにぬかしてんだかとかバカバカしいなぁという気持ちの方が先に立ってしまって感情移入できなかったりするのだ。
自分でカネを稼ぐこともできない高校生で君が好きだの愛しているだの言ってもそれは結局、ただの性欲なんだろうなとしか考えられない汚れちまったオッサンになってしまったわけですよ。

人生百年時代になると「老いらくの恋」とか「焼けぼっくいに火がつく」みたいな恋愛事情も少なくなくなっていくのでしょうけれども、高校生のときみなたいな気持ちになることはないのだろうなと思った。

 

 

恐怖人形

心霊ホラーかと思ったら、物理で殴る復讐猟奇殺人事件の映画でした(ネタバレ)

復讐相手に心のそこから反省し自分の犯してしまった罪を悔い改めるために「呪い」をトッピングするというのはアリかもしれないなぁと見終わって考えたりした。
世の中には、反省しない人はいるのだけれども、幽霊が怖いとかおばけが怖いとか心霊現象とか呪いは駄目だっていう人は案外少ない。

どうなんだろうか?

サイコパスやソシオパスな人というのは、信心深くはないような気がする、信心深くはないけれども、幽霊とか心霊現象は信じたりするのだろうか?そのあたりの統計的なものってないような気がする。

映画なんかだと、サイコパスな人っていうのは、幽霊とかゾンビが平気なキャラクターとして描かれることが多いような気がする。
そういうサイコパスなキャラクターに対して幽霊的な心霊現象的な呪いの演出で反省を促すというのは、果たして可能なのだろうか?

もしくは会社経営に呪術的なテクニックを取り入れるというのはありなのだろうか?自分はそういうのはやろうとは思いませんけれども。

 

竜とそばかすの姫

昨日は映画竜とそばかすの姫を見に行きました。

物語は50億人が登録するインターネットサービスUが舞台ですな。
舞台は2025年くらいだとすると、そのころの世界人口は約79億人だから全世界の6割の人、ということはネットを利用できない子供以外は全員という感じになるのでしょうか?

ベルっていう名前からも竜が英語だとDragonではなくBeastになっているところからも、ディズニーの美女と野獣が少しベースになっている感じがします。

ネットは匿名という文化はそろそろなくしていきたいなというふうに思っています。
個人的には23年前からずっと実名でインターネットをやってたので、ネット=匿名というのは幻想にすぎないと考えています。

だからネットの世界で本当にどこの誰だかわからない、正体がわからない、という存在があるとすれは、それはバグだったり、なんらかの不正アクセスしたアカウントであるはずです。

映画の中のUを運営している企業?あるいは団体?あるいは組織?があるみたいです。アカウントの認証にスマホの電話番号が紐づけされているみたいなので、どこのだれかっていうのはすぐにわかるじゃんっていうふうに考えたり、まぁなんというかネットのごたごたというか炎上しているのに、いちいち運営が相手するのはどなんだろうか?とか
アンベイルっていうのは、つまりは実名をばらすっていうことで、それを一般ユーザーが権限として与えられるって仕様は、ユーザーサービスとしてありなのかね?みたいな突っ込みどころが頭の中をぐるぐる回って、今一つ入っていけなかったのが正直なところでした。

そりゃもちろん捨て垢だったり、飛ばしスマホを使ったりして、ちょっとした匿名になるっていうのはできなくもないのですけれど、そこまでの掘り下げはなかったりするので、ちょっと違ったアプローチが必要なのかもと思ったりもした。

でもエンタメとしては「ネット=匿名」という設定の方がまだまだ現役で正しいのかもしれない。レディープレーヤーワンでもネットは匿名空間だったし、わからなくもないのだけれども、その世界観はやっぱり80年代のものなので、一昔前のネットの概念のような気がする。

次の2025年以降はデジタルツインとか、現実世界と情報がいかに同一化していくかという方向へ向かうと思うので、例えばデジタルツインで情報が書き換えられることで、オリジナルとツインの優位性とか本質性がどっちにあるのかあやふやになるとか、そういう物語がふえていくのではないだろうかなんてことを考えたりした。

 

 

 

夏への扉

映画館で「夏への扉」を見ました。
ハイラインの原作の舞台を2025年の日本にしています。
ストーリーはほぼ原作通りに進行していきます。
ロボットのピートの扱いが原作にはない部分なんですけれども、藤木直人さんの演技と相まって、あと2025年を「未来」と設定しているのと合わせて考えると物語に面白さをプラスしているのだなと思いました。SFのタイムトラベルの古典ですのでやっぱり面白いですね。

ただ原作の主人公は山崎賢人さんみたいなイケメンではないような気がするのですが、まぁそれはそれでいいでしょう。ヒロインの清原果耶さんも眼福であります。それから猫もかわいい。猫最高。

あと劇団キャラメルボックスが舞台化していて、こっちは見ていないのだけれどもDVDちょっち高いというか転売屋価格な気がするので、食指が動かないのだ。

1950年代~70年代のSF小説を今風にリメイクするというのは面白いと思います。小説だけじゃなくて映画とかでもいいかも。

メトロポリス2065、ソイレント・グリーン2045とか作ってみると面白いかもしれない。

 

ラグナロク

今の所シーズン1と2があって、シーズン2の第2話まで見終わったところです。
ノルウェーのテレビドラマになります。

ノルウェーとか北欧の映画ってあまり見たことないです。

北欧の映画といえば「フィンランド式残酷ショッピングツアー」「レイキャビク・ホエール・ウォッチング・マサカー」くらいしか見たことがないので、あんまり参考にはならない感想ですが、やはり高校生にとっては、環境問題に対して正面切って主張するというのは、なんか違う感というか、「別に自分が主張しなくてもいいんでない?」もしくは「そういうのを熱く語るのって、イカスね、ヒューヒュー(すこし小馬鹿にした感じで)」というのは、どの国も共通なのかもしれない。
環境問題は自分にとっても大事なことなんだけれども、じゃあ実際になにが出来るんだよちっぽけな自分に、という子供の立場というか結局は何もできない自分。

そういう中で転校生であるところの主人公のただ一人の友だちになってくれた女性が「事故死」してしまうわけだけれども、彼女は町を牛耳っている企業の環境問題をYou Tubeで配信したりしていて、警察もまともに調べないしなんかおかしい、どうなってんだよ、という感じで話が導入されていくわけです。

環境問題とか、長年の積み重ねで大きくなった問題というのは、例えばその悪い状況になるまでに100年の年月が必要だと、それを元通りにしようと思ったら、その3倍の300年くらいの時間が必要だったりする。
いろいろな問題で時間を掛けて積み重なった変化というのは、なかなか元には戻らないわけで、何世代もの努力が必要だったりする。

そういうことを考えながら見るのだ。

 

「運び屋」

クリント・イーストウッドの「運び屋」を見た。
90歳の麻薬の運び屋の実話を元にした映画で2018年の作品。

実際は家族との絆を取り戻したくても、麻薬の運び屋をしてしまうと絆どころの騒ぎではなくなってしまうのではないかと思ったりもしたけれど、なんというか麻薬というのはそんなに儲かるものなんだろうか?と思ったりする。
すごく贅沢そうな暮らしをしている麻薬売買のボスみたいな人の家とか見るとお金持ちそうではあるのだけれど、そのぶん経費も掛かりそうだし、部下に裏切られて殺されたりしているので、精神的にはキツイのではないだろうか、そういう生き方は、と思った。

信用を積み重ねていると信用を得やすい。

映画の中でイーストウッドが演じる「アール」という老人は、無事故無違反の白人で犯罪歴もなく、それなりの商売をしてきて、いろいろな団体の役員のようなものも務めてきた真面目な男だ。
で、麻薬組織はそういう男だからこそ警察の目を欺くことができると考え、実際に多量の麻薬の密輸を成功させる。

途中、何度か警察と交わるのだが、彼は全く疑われないのだ。(もちろん演出なのでオーバーな部分はあるのかもしれないけれど)

この映画の時、イーストウッドは88歳。うーむ元気な爺さんである。
流石にこの歳になるとアクションシーンはほぼない、殴り返したりケリを入れたりとかそういうシーンはないし、けっこうよぼよぼではあるが、おねーちゃん二人相手にキャッキャウフフしたりするシーンが二度もあるので、なんというか下半身は元気そうな設定である。

最後に奥さんや娘さんは許してくれるっぽいシーンで終わるのだけれども、なんというか実際はこういう爺さんは救われないのだろうなとも想う。
映画としてはいい映画ですよ、なんというか、これを見た家庭を顧みないタイプの男性は安心するかもしれない。
でも、この映画みたいに許されることはまずないと想う。

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