「世界がもし100人の村だったら」という本を、きっとどこかで見たことがあると思う。
世界人口を100人に縮めて、「そのうち何人が貧しいか」「何人が戦争に苦しんでいるか」を示すことで、グローバルな格差や不公平を直感的に感じさせようとする本だ。
ああいう本を読んで、「自分は恵まれているんだな」「世界には大変な人がたくさんいるんだな」と思うのは、まっとうな反応だと思う。問題は、その先だ。
「100人にして考える」ような抽象化は、たしかに思考を整理するには便利だ。
世界中の情報を全部そのまま受け止めるなんて無理だから、ある程度ざっくりまとめないと、何も考えられなくなる。
でも、その「ざっくり」の仕方を間違えると、現実からズレた結論にたどり着く。
もっと言えば、「いい話を聞いて、いい人になった気がするだけ」で、判断を誤ったり、行動をやめてしまったりする。
そもそも世界は「100人の村」ではない。
80億人の人間が、国や地域、階級、宗教、価値観の違う「たくさんの村」に分かれて暮らしている。
それぞれの村にはそれぞれの事情と問題があって、ときには利益が真っ向からぶつかる。
ある国の輸出産業を守る政策が、別の国の産業を潰すことだってあるし、自国の物価を安く抑えるために、どこかの国の低賃金労働に依存していることもある。
「みんなで仲良く助け合おう」という村の倫理だけでは割り切れない現実が、そこにはある。
それでも、100人に縮めると、その複雑さが消える。
アジア61人、アフリカ13人――と数字を並べると、一瞬「世界の全体像を理解した気」になれる。
だが、中国もインドも日本も「アジア人」として1つの箱に放り込まれ、内側の格差や対立は見えなくなる。
「20人が富の80%を持っている」というフレーズはインパクトがあるけれど、その20人がどこの国のどういう人たちなのか、どういう仕組みでその状態になっているのかは、ほとんど語られないままだ。
ここで思考を止めてしまうと、「恵まれている自分は申し訳ない」といった感情だけが残り、現実の制度や政策について考えるエネルギーは湧いてこない。
こうした単純化の危険性は、政治の規模を考えるときにもよく表れる。
たとえば「もし日本が100人の村だったら」というノリで、「みんなで話し合って決めよう」「困っている人がいたら、みんなで助けよう」と言うのは、一見とても美しい。
しかし現実には、日本には1億2千万人以上が住んでいる。
100人の村なら全員の顔が見えるし、話し合って合意を目指すことも不可能ではない。
けれど、数億人、数十億人の社会では、同じやり方は通用しない。
仮に「発生確率0.5%のトラブル」があるとする。
100人の村なら、起こる年もあれば起こらない年もある、というレベルだ。
何かあっても、その都度みんなで相談して何とかできるかもしれない。
でも1億人の社会なら、0.5%は50万人だ。
毎年50万人がそのトラブルに巻き込まれるとしたら、「起きたときに相談しよう」ではどうにもならない。
そこには、個々人の善意ではなく、制度やルール、専門機関が必要になる。
100人単位の感覚で、「そんなレアケースのためにルールを作る必要ある?」と考えると、社会全体としては大事故につながる。
今、アメリカでは、ある意味で「100人の村感覚で数億人の国を運営したらどうなるか」という社会実験が進んでいる(と言ってもいいかもしれない)。
カリスマ的なリーダーの言葉がSNSで一気に拡散し、フォロワーたちが「俺たちの村の常識」を国全体に押し広げようとする。
そこでは、複雑な制度や国際関係よりも、「分かりやすい敵」と「分かりやすい味方」の物語が優先される。
結果がどう出るかは、数年から十数年かけて、経済や社会の分断などの形で徐々に表れてくるだろう。
ただ1つ言えるのは、「大きな社会を小さな村のノリで動かす」ことのリスクを、世界中がリアルタイムで見せられている、ということだ。
まぁ、こういう話をしても、「だからどうすればいいの?」という気分になるだけかもしれない。
選挙には行かなかったり。
仕事も、飯が食える程度でいいし、別に社会を良くしようなんて大それた意欲もない。
そんな心持ちもよく分かる。
どれだけ考えたところで、世界も世間も一気に良くなるわけではないし、自分ひとりが投票したところで何が変わるのか、みたいな。
でも一つ、視点を変えてみてほしい。
単純化されたきれいごとに乗っかって「考えたつもり」で終わるのか、それとも「これは単純化され過ぎていないか?」と一歩引いて、自分の頭で考え直すのか。
これは、自分自身の生き方の問題でもある。
たとえば、投票に行くか行かないか。
短期的に見れば、行かないほうが楽だし、時間も節約できる。
自分の給料が明日から増えるわけでもない。
でも、長期的に見れば、「誰がルールを作るか」「どんな発想でこの国を運営するか」は、確実に自分の生活に跳ね返ってくる。
もし「100人の村」レベルの単純な物語に流されやすい人たちだけが熱心に投票して、複雑さに違和感を持つ人が沈黙していたら、社会はどう歪んでいくか。
そこまで含めて、「自分の頭で考える」という行為が投票だと思う。
仕事についても同じだ。
仕事に意義を感じない、会社が好きでもない―それはそれで正直な感覚だと思う。
でも、「どうせ意味なんてない」と投げてしまうと、自分の時間と労力を、誰かの描いた単純な物語のために使わされることになりやすい。
逆に、「自分にとっての意味」を少しでも考え続ける人は、たとえ一時的に損な選択をしても、長い目で見れば、自分の軸で動けるようになる。
ときには、自分の短期的な利益に反する選択をする必要もあるかもしれない。
たとえば、
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自分の得にならないけれど、社会全体のルールがマシになる方向に投票する。
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会社では評価されないけれど、自分が正しいと思う働き方・断り方をする。
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「分かりやすい敵」を叩く快感より、「本当は何が起きているか」を調べる面倒を選ぶ。
これはきれいごとではなく、実務的な話でもある。
誰かが単純化した物語に乗れば乗るほど、その「誰か」にとって都合のいい世界が出来上がる。
逆に、自分で考え、自分で決める人が少しでも増えれば、単純な煽りだけでは社会を動かしにくくなるかもしれない。
「世界がもし100人の村だったら」という本は、入口としては悪くない。
問題は、そこで思考を止めてしまっていないかどうかだ。
世界は100人の村ではない。
80億の人間が、それぞれ違う村・違う立場・違う利害を抱えて生きている。
その複雑さを全部理解することはできなくても、「100人の村みたいな単純な話では済まない」という感覚だけは、どこかに持っておくほうがいいと思う。
その感覚があるかどうかで、これからする小さな選択―投票に行くかどうか、どんなニュースの言葉を信じるか、何に時間を使うか―の意味が、少しだけ変わってくる。