まず言っておきたい。
「私は百合が好きだ」
誤解しないでほしいのは、これが単なる性的嗜好の話ではないということ。
ここで言う「百合」とは、女性同士の関係性が、社会が強要する「男女の恋愛と生殖」という規範から逸脱し、完結した宇宙を作ることを指します。
Netflixで世界独占配信が開始された映画『超かぐや姫!』を観終えた今、私の脳裏にはその確信が焼き付いている。
2時間22分に及ぶ長編アニメーションは、表向きはポップで煌びやかな「音楽×メタバース」のエンターテインメントだ。
本作の監督・山下清悟は、かつて『呪術廻戦』や『チェンソーマン』のOP演出で、キャラクターの関係性を情緒的に描く手腕を見せつけたクリエイターだ。
その彼が初の長編監督作で描いたのは、主人公「かぐや」と、彼女をプロデュースする女子高生「酒寄彩葉」のバディ関係である。
従来の商業アニメ、特に古典のリメイクにおいて、制作サイドはしばしば「現代的な解釈」と称して安易なロマンスを挿入したがる。
かぐや姫であれば、帝や貴公子との悲恋を強調するのが定石だろう。
しかし、『超かぐや姫!』において、男性キャラクターたち(ブラックオニキスの面々など)はあくまで脇役であり、かぐやと彩葉の間に割り込むことはない。
なぜなら、現代のコンテンツにおいて、必然性のない男女の恋愛はもはや物語の純度を下げる「ノイズ」になりかねないからだ。
かぐやと彩葉の関係は「恋愛」という既存の枠組みにはいない。
それは「プロデューサーと演者」という、創作を通じた共犯関係だ。(物語前半では親子関係ではあるが、それは数日で解消する)
彼女たちは子供を作る代わりに、楽曲を作り、ライブという「瞬間」を共有する。
この物語構造は、問いかける。「あなたにとっての『運命の人』とは、遺伝子を混ぜ合わせる相手なのか? それとも、魂の形(コンテンツ)を共に作り上げる相手なのか?」と。
本作の要は、仮想空間「ツクヨミ」の管理人でありトップライバーである「月見ヤチヨ」の存在だ。
8000歳という設定のAIである彼女は、底抜けに明るく振る舞いながら、クリエイターたちを見守り続けている。
しかし、物語が進むにつれて明らかになるのは、彼女こそが「かつて月に帰り、8000年の時を孤独に過ごし続けた“本物のかぐや姫”」であるという事実だ。
彼女は『竹取物語』の原典通り、帝や翁との別れを受け入れ、月に帰るという「バッドエンド」を甘受した存在だ。
ヤチヨのハイテンションな振る舞いは、8000年分もの孤独の裏返しのように思える。(監督の山下清悟は、「暗いものを抱えている人ほど明るく振る舞う」という演出意図を語っている。)
想像してみてほしい。
肉体を持たず、老いることもなく、ただデータとして8000年を生きることを。
それは「死」の克服であると同時に、終わりのない「生」の牢獄でもある。
ヤチヨが抱える「8000年の孤独」は、生殖(=寿命のある肉体の継承)を捨て、永遠の命(=データとしての保存)を得た存在が支払う代償でもある。
でも、この「孤独」を単なる悲劇として終わらせない。
ヤチヨが歌うメインテーマのタイトルは「Ex-Otogibanashi」。
つまり「おとぎ話からの脱却」だ。
彼女は、かつて自分が逃れられなかった「月に帰る(=社会的な死と忘却)」という運命を、現代の新しいかぐやたちが、書き換えることを8000年間待ち続けていたのではないだろうか。
この物語でかぐやは、竹からではなく「七色に光るゲーミング電柱」から生まれる。
これこそが、本作が「自然への回帰」ではなく「人工による自然の超克」を志向している決定的な証拠なのかもしれない。
現代において、電柱とは都市の神経網であり、情報を伝達するインフラでもある。
そこから生まれたかぐやは、自然物(竹)の申し子ではなく、情報技術(テクノロジー)の申し子のように思える。
ここで思い出すのが「ゼノフェミニズム(Xenofeminism)」という思想だ。
スローガンは「もし自然が不当なら、自然を変えろ」
彼らは、身体的・生物学的な制約(性差や出産など)が不平等の源泉であるならば、テクノロジーを使ってそれを改変し、解放されるべきだと説く。
『超かぐや姫!』は、まさにこのゼノフェミニズムの実践なのかもしれない。
月見ヤチヨは、生物学的な母親から生まれる必要もなければ、子宮を使って子孫を残す必要もない。彼女の生命線は、ネットワークと電力、そして彩葉たちが生み出す音楽データだ。
物語の結末において示唆される「かぐや(ヤチヨ)の肉体(攻殻機動隊で言うところの義体)を作る」という解決策。
肉体という「自然の器」が限界を迎えるなら、テクノロジーで「新しい器」を作ればいい。
金とコネと技術を使って、愛する存在を地上に繋ぎ止める。
それは「運命」や「自然の摂理」に対する、人間の意志による勝利宣言だ。
私たちは今、人類史上初めて「選択」ができる岐路に立っているのかもしれない。
従来、生物としてのハッピーエンドは「セックスをして、子供を産み、遺伝子を次世代に残すこと」一択だった。
『竹取物語』の時代、かぐや姫が月に帰る(=結婚も出産もしない)ことは、現世における「死」と同義であり、だからこそそれは悲劇だった。
しかし、現代は違う。 私たちは「創作物」や「データ」、「思想」を、肉体よりも長く、鮮明に残すことができる。
ボカロPたちが作った楽曲は、彼らの肉体が滅びた後も、初音ミクや月見ヤチヨといった「電子の歌姫」によって歌い継がれるだろう。
本作にryo (supercell)やkz (livetune)といったボカロ界のレジェンドたちが参加している。
彼らは、自らの声(肉体)ではなく、データに魂を乗せて永遠性を獲得した先駆者たちだ。
『超かぐや姫!』が提示したのは、以下の二つの生き方の対比だ。
生物学的生存: 肉体を使い、生殖し、老いて死に、遺伝子をリレーする。
情報的生存: テクノロジーを使い、創作し、老いを超越し、物語(ミーム)をリレーする。
かぐやと彩葉が選んだのは後者だった。
彼女たちは「子」ではなく「曲」を残し、物理的な距離を「AR」や「VR」で埋めた。
もちろん、ヤチヨの孤独が示すように、情報的生存には「体温の欠如」という痛みがあるかもしれない。
しかし、本作は高らかに宣言する。
「それでも、私たちは歌い続けることで繋がれる」と。
ライブシーンで描かれる圧倒的な多幸感は、肉体の接触がなくとも、魂が共鳴し合えることを表現しているように思える。
エンドロールの終わりにちょっとした蛇足が流れる。
8000年の時を超えたヤチヨの救済と、かぐやたちが掴み取った「おとぎ話を超えたハッピーエンド」を。
ツクヨミはホットケーキの姿をしている。それは時間がループしているようにも思える。(個人的にはホラー映画の「来る。」の最後に出てきたオムライスの国を連想した)
もしあなたが、「結婚して子供を持つことだけが幸せ」という決まり事に息苦しさを感じているなら、あるいは「推し」や「創作」に人生を捧げることに迷いを感じているなら、迷わずこの映画を観てほしい。
遺伝情報を残すことだけが「生」ではない。
あなたの描いた絵、あなたの作った曲、あなたの綴った言葉、そしてあなたが誰かと共有した「最強」の瞬間。
それら情報を次世代へ繋いでいくこともまた、立派な「生命活動」なのだ。
ゲーミング電柱から生まれた新しいかぐや姫は、私たちにこう微笑みかけている。
「自然(運命)なんて変えちゃえばいいじゃん。だって、私たちのほうが進化してるんだから」
この映画は、生殖を省いた先にある、光り輝く電脳の地平を私たちに見せてくれた。
だから私は、胸を張ってもう一度言おう。
私は、この「百合」が、この「新しい生存戦略」が好きだ。