アマプラで、映画「8番出口」を観ました。
原作は、地下通路を歩き続けるだけのシンプルなゲーム。
二宮和也さん演じる「迷う男」が、地下鉄の改札を出たあと白く明るい地下通路に迷い込み、どれだけ歩いても外に出られなくなる。そういう話です。
ルールは、壁に貼られた「ご案内」に書かれています。
異変を見逃さないこと。
異変を見つけたら、すぐに引き返すこと。
異変が見つからなかったら、引き返さないこと。
そして、8番出口から外に出ること。
正しく判断できれば出口の番号がひとつずつ増え、間違えると「0番」に戻されて最初からやり直しになります。
これは「人生」のメタファーだと思いました。
人生には「ご案内」が貼られていない
この映画の中の通路には、少なくともルールが書いてあります。
何をすれば出られるのか、何をしたら振り出しに戻るのか。
理不尽な空間ではあっても、ゴールと道順の考え方だけは示されています。
ところが、現実の人生にはそんな掲示板はありません。
どこが出口なのか、誰も教えてくれない。
そもそも出口がひとつなのかどうかもわからない。
ある人にとっての出口は、別の人にとってはただの通過点かもしれません。
家業を継ぐことが出口だという人もいれば、家を出ることが出口だという人もいる。
独立して店を構えることがゴールだという人もいれば、会社勤めを全うすることに誇りを持つ人もいる。出口は、人それぞれなのです。
そして「正しい道順」も、自分で考えなければなりません。
どこで引き返し、どこで進むのか。
何を「異変」と見なし、何を「いつも通り」と見なすのか。その判断基準すら、自分でつくるしかない。
映画の主人公は、少なくとも「異変を探せばいい」とわかっていました。
私たちは、何を探せばいいのかを探すところから始めなければならないのです。
正解かどうかは、何周かあとでわかる
映画を観ていて、いちばん身につまされたのはここでした。
主人公は通路を一周するたびに「異変はあったか、なかったか」を判断して進みます。
そして、その判断が正しかったかどうかは、次の角を曲がって出口の番号を見るまでわかりません。
「よし、今のは合っていた」と思って進んだのに、「0番」の表示を見て愕然とする。
観ているこちらまで胃が痛くなる瞬間です。
人生も同じだと思います。
自分の選択が正しかったかどうかは、時間がたたないとわかりません。
しかも映画のように、すぐに答え合わせができるとは限らない。
五年後、十年後、あるいはもっとあとになって、ようやく「あのときの判断は」と気づくことがあります。
厄介なのは、今の時点で「正解を選んだ」と感じていても、何周目かあとで間違いだったと気づくことがある点です。
逆もあります。
あのときは失敗だと思っていた選択が、ずっとあとになって「あれがあったから今がある」と思えることもある。
商売をしていると、これは実感としてよくわかります。
思い切って設備投資をした、新しい取引先と組んだ、ある仕事を断った。その瞬間は「これでいい」と思って決めている。
けれど、それが本当に良かったかどうかは、何年もたってからでないと見えてきません。
景気の波、お客さんの世代交代、業界の変化。判断した時点では誰にも見えなかった要素が、あとから答えを書き換えていきます。
戻れるのは映画の中だけ
映画の主人公は、間違えれば「0番」に戻されます。
それは残酷なことのように見えますが、裏を返せば「やり直しができる」ということでもあります。
同じ通路を、もう一度最初から歩き直せる。
経験を積んだぶん、二周目、三周目の彼は少しずつ注意深くなっていきます。
しかし、現実はそうはいきません。
一度選んでしまったルートは、その分かれ道まで戻って一からやり直すことはできない。
時間は一方向にしか流れず、私たちは常に「今いる地点」から先へ進むことしかできません。
そして、二度と選べない選択肢もあります。
あのとき声をかけていれば。あのとき引き受けていれば。
あのとき親ともっと話しておけば。
そういう「選ばなかった道」は、あとから戻ろうとしても、もうそこにはありません。
通路の分かれ道そのものが、時間とともに消えてしまうのです。
映画の通路は何度でも同じ姿で現れますが、人生の通路は、二度と同じ姿では現れません。
ただ、ひとつだけ映画と同じところがあるとすれば、それは「歩いた経験は消えない」ということです。
主人公が0番に戻されても、それまでに見た異変の記憶は彼の中に残っていました。
私たちも、選んだ道を取り消すことはできませんが、その道を歩いて身につけたものまで失うわけではありません。
失敗した仕事の段取りも、うまくいかなかった人間関係も、次の分かれ道で判断するときの材料になります。
やり直しはできなくても、「やり直すつもりで次を選ぶ」ことはできる。
そう考えると、戻れないということは、必ずしも絶望ではないのかもしれません。
すれ違う人か、つながる人か
映画には、主人公が何度もすれ違う「歩く男」が登場します。
劇中で「おじさん」と呼ばれる、スーツ姿の男性です。
最初はただの通行人のように見えます。
同じ通路を、同じように向こうから歩いてきて、すれ違っていくだけ。
けれど物語が進むにつれて、その存在の意味が少しずつ変わっていきます。
これも、現実の人間関係によく似ていると感じました。
私たちは毎日、たくさんの人とすれ違っています。
現場で顔を合わせる職人さん、たまたま電話を受けたお客さん、展示会で名刺を交わしただけの人。
そのほとんどは、ただ通り過ぎていくだけの関係かもしれません。
でも、その中の誰かが、何年かあとに大事な取引先になったり、困ったときに手を差し伸べてくれる人になったりする。
その人がただの通行人なのか、それともものすごく深いつながりになる人なのか。
それは、すれ違ったその瞬間にはわかりません。
あとになって、振り返ってはじめてわかるものです。
思い返してみれば、今いちばん頼りにしている人との最初の出会いを、はっきり覚えていないということもよくあります。
それくらい、深いつながりの始まりは何気ないものです。
反対に、そのときは強く印象に残ったのに、その後まったく縁がなくなった人もいる。
出会いの大きさは、出会った瞬間の印象とは関係がないのです。
だからこそ、すれ違う一人ひとりを、少しだけ丁寧に扱っておきたい。
どの出会いが人生の「異変」になるのか、私たちには選べないのですから。
どうしようもない変化もある
映画の通路では、ときに主人公の努力ではどうにもならないような、圧倒的な異変も起こります。
注意深く観察していても、正しい判断を重ねていても、それとは関係なく襲ってくるものがある。
現実にも、そういうことはあります。
津波や地震のような、避けようのない災害です。
真面目に働き、慎重に判断し、ひとつずつ積み上げてきたものが、ある日突然、根こそぎ変わってしまう。
そこに個人の選択の正しさは関係ありません。
日本で暮らし、地域のインフラを支える仕事をしている私たちにとって、これは決して遠い話ではないはずです。
災害だけではありません。
病気、事故、身近な人との別れ。
自分の力ではどうしようもない出来事によって、それまで歩いていた通路の景色がまったく変わってしまうことは、誰の人生にも起こりえます。
それでも、結局は自分で選ぶしかない
ここまで書くと、ずいぶん暗い話に聞こえるかもしれません。
出口はわからない。
道順も自分で考えなければならない。
正解かどうかはあとにならないとわからない。
戻ってやり直すこともできない。
どうしようもない出来事で、すべてが変わってしまうこともある。
それでも、映画の主人公は歩くことをやめませんでした。
立ち止まっていても、通路は終わらない。
誰かが代わりに判断してくれるわけでもない。
進むか、引き返すか。結局は、自分で選ぶしかないのです。
人生も同じだと思います。
正解が保証された選択など、ひとつもありません。
けれど、正解がわからないからこそ、自分の目で見て、自分の頭で考えて、自分で選ぶことに意味がある。
たとえあとで間違いだったとわかっても、自分で選んだ道なら、そこから先をどう歩くかもまた、自分で考えることができます。
他人に選ばされた道では、そうはいきません。
もうひとつ、映画を観て感じたことがあります。
主人公は何周もするうちに、通路の細部をよく見るようになっていきました。
ポスターの位置、照明の具合、すれ違う人の様子。
最初は気にも留めなかった「いつもの風景」を、丁寧に見つめるようになる。
私たちの仕事も、毎日が同じ通路を歩いているようなものかもしれません。
同じような現場、同じような段取り、同じような一日。
けれど、その「いつも通り」の中にある小さな変化に気づけるかどうかで、その先の道は変わっていくのだと思います。
お客さんのちょっとした表情、設備の小さな異音、取引先の何気ないひとこと。
異変は、いつも通りの中にこそ紛れています。
出口がどこにあるのか、私にもわかりません。
今の選択が正しいのかどうかも、何周かあとにならないとわからないでしょう。
それでも、明日もまた通路を歩きます。
見逃さないように、目を凝らしながら。そして、自分で選びながら。