「目詰まり」という言葉が、頭の中でずっと引っかかっている。
地下鉄の改札口が、十箇所あった。
そのことになんの疑問も持っていなかった。
意識も別にしていなかった。
朝の通勤ラッシュでも、夕方の帰宅ラッシュでも、人の波はそれなりにさばけていた。
不満がないわけではなかったが、まあ、これが普通だと受け入れていた。
それが、故障した。
原因はいくつも重なっていたらしい。
老朽化、想定外の負荷、メンテナンスの遅れ。詳しいことは専門家にしかわからない。
気づいたときには、使えるのは一箇所だけになっていた。
駅の構内に人が溢れた。
当然だ。十箇所通れていた場所が、一箇所になったのだから。
列は改札を超えてホームまで伸び、ホームから階段まで伸び、階段から地上まで伸びた。
これを「目詰まり」と呼ばずに、何と呼べばいいのか。
石油も、同じだ。
原油を掘り、運び、精製し、製品にして、届ける。
その長い連鎖のどこかが細くなると、全体が滞る。
ガソリンだけではない。プラスチック、肥料、医薬品の原料、輸送コスト、食品の包装材。
石油は現代社会のあらゆる隙間に染み込んでいるから、「目詰まり」が起きると、思わぬところで棚が空になる。
「目詰まり」という表現は、確かに的を射ている部分がある。
問題が一箇所に集中しているわけではなく、システム全体に分散して詰まっている様子を、うまく言い表している。
責める相手が見えにくい、複雑な状況を。
修繕は進んでいる、と担当者は言った。三箇所には戻せそうだ、と。
通勤の時間をずらしたり、バスや自転車を使えば「なんとか回る」とも言った。
「なんとか、回る。」
その言葉の重さを、どう受け取ればいいのだろう。
「なんとか」という副詞の中に、誰かの不便が、誰かの疲弊が、誰かの諦めが、ひっそりと畳み込まれている。
毎朝数十分早く起きなければならなくなった人のことを、担当者は数えていただろうか。
バス代が余分にかかるようになった人のことも。
改札が十箇所に戻るのは、おそらく五年か十年先だ。
おそらく、という言葉も気になる。
確約ではない。元通りにならないのかもしれない。
「騙された」と叫ぶのは簡単だ。
「ごまかされている」と怒るのも。
その感情は正直なものだし、間違ってはいない。
けれど、怒りを誰かにぶつけた瞬間に、思考が止まる。
悪者を見つけたことで、安心してしまう。本当に問われるべき問いから、目が逸れる。
誰がいつ、どんな判断をして、何を後回しにしてきたのか。
それを丁寧に問わない限り、改札口はいつまでも三箇所のままかもしれない。
あるいは、次の故障が起きたとき、また一箇所に戻るかもしれない。
「目詰まり」という言葉は、状況を説明している。
でも、責任の所在は説明していない。
言葉が現象を包んだとき、その内側に何が隠れるか。
それを読み解くのは、改札の外で列に並ぶ、私だ。
あなたも、その列に並んでいる。