ラグナロク

今の所シーズン1と2があって、シーズン2の第2話まで見終わったところです。
ノルウェーのテレビドラマになります。

ノルウェーとか北欧の映画ってあまり見たことないです。

北欧の映画といえば「フィンランド式残酷ショッピングツアー」「レイキャビク・ホエール・ウォッチング・マサカー」くらいしか見たことがないので、あんまり参考にはならない感想ですが、やはり高校生にとっては、環境問題に対して正面切って主張するというのは、なんか違う感というか、「別に自分が主張しなくてもいいんでない?」もしくは「そういうのを熱く語るのって、イカスね、ヒューヒュー(すこし小馬鹿にした感じで)」というのは、どの国も共通なのかもしれない。
環境問題は自分にとっても大事なことなんだけれども、じゃあ実際になにが出来るんだよちっぽけな自分に、という子供の立場というか結局は何もできない自分。

そういう中で転校生であるところの主人公のただ一人の友だちになってくれた女性が「事故死」してしまうわけだけれども、彼女は町を牛耳っている企業の環境問題をYou Tubeで配信したりしていて、警察もまともに調べないしなんかおかしい、どうなってんだよ、という感じで話が導入されていくわけです。

環境問題とか、長年の積み重ねで大きくなった問題というのは、例えばその悪い状況になるまでに100年の年月が必要だと、それを元通りにしようと思ったら、その3倍の300年くらいの時間が必要だったりする。
いろいろな問題で時間を掛けて積み重なった変化というのは、なかなか元には戻らないわけで、何世代もの努力が必要だったりする。

そういうことを考えながら見るのだ。

 

「運び屋」

クリント・イーストウッドの「運び屋」を見た。
90歳の麻薬の運び屋の実話を元にした映画で2018年の作品。

実際は家族との絆を取り戻したくても、麻薬の運び屋をしてしまうと絆どころの騒ぎではなくなってしまうのではないかと思ったりもしたけれど、なんというか麻薬というのはそんなに儲かるものなんだろうか?と思ったりする。
すごく贅沢そうな暮らしをしている麻薬売買のボスみたいな人の家とか見るとお金持ちそうではあるのだけれど、そのぶん経費も掛かりそうだし、部下に裏切られて殺されたりしているので、精神的にはキツイのではないだろうか、そういう生き方は、と思った。

信用を積み重ねていると信用を得やすい。

映画の中でイーストウッドが演じる「アール」という老人は、無事故無違反の白人で犯罪歴もなく、それなりの商売をしてきて、いろいろな団体の役員のようなものも務めてきた真面目な男だ。
で、麻薬組織はそういう男だからこそ警察の目を欺くことができると考え、実際に多量の麻薬の密輸を成功させる。

途中、何度か警察と交わるのだが、彼は全く疑われないのだ。(もちろん演出なのでオーバーな部分はあるのかもしれないけれど)

この映画の時、イーストウッドは88歳。うーむ元気な爺さんである。
流石にこの歳になるとアクションシーンはほぼない、殴り返したりケリを入れたりとかそういうシーンはないし、けっこうよぼよぼではあるが、おねーちゃん二人相手にキャッキャウフフしたりするシーンが二度もあるので、なんというか下半身は元気そうな設定である。

最後に奥さんや娘さんは許してくれるっぽいシーンで終わるのだけれども、なんというか実際はこういう爺さんは救われないのだろうなとも想う。
映画としてはいい映画ですよ、なんというか、これを見た家庭を顧みないタイプの男性は安心するかもしれない。
でも、この映画みたいに許されることはまずないと想う。

ノマドランド


近所の映画館でやっていたので見に行った。
映画というよりもドキュメンタリーと言ったほうがいいような作品。

いろいろと考えるところがです、自分の中でも答えが一つに定まらないというか、選ぶのも幸せなのかどうかも結局は自分次第なんだろうなというような考え方に落ち着く。

ノマドとかワークキャンパーとか、一昔前で言うとフリーターとか、いわゆる定職につかず、自由気ままに暮らすというか、資本主義的な成功価値観とは少し違ったところで暮らしている人々の物語。
今回、アメリカでこういう暮らし方をしているという人について興味が出たので、原作本の「ノマド 漂流する高齢労働者たち」というのを買って読んでいるところです。
ホームレスじゃなくてハウスレスな生き方。
好きでやっている人
しかたなくやっている人
いつでもやめられる人
いつでもやめられると思っていたのにやめられなくなってしまった人
やめられなくなってしまう原因はいろいろある。社会環境の変化とか、生活様式の変化とか、単に年齢を重ねてしまったとか、怪我をしたり病気になってしまったりとか。

人は、いつでも違う生き方ができる、今とは違った生き方を選択することができる。そう考えられるうちは幸せを感じると想う。
そこには希望があるからだ。
「まぁ、今は大変だけれど、まだ終わりじゃない」
そういう未来が見えているなら人は幸せなんだと想う。

アルバイトではなくてフリーターっていっても本質的なものは一緒だったりするし、家事手伝いは無職だし、シャアハウスは貧乏長屋っていうことだし、呼び名は違っても、その本質は同じなんだろうと想う。
本質は同じであるからこそ観念に左右される。
同じ状態でも人によっては幸せこのうえない場合もあるし、不幸で不幸で辛抱たまらない状態の人だっている。
見る人によって違うのだろう。

amazonでワークキャンパーとして労働することは、好きでやっている人にとっては天国かもしれないが、しかたなくやっている人にとっては地獄なのかもしれない。

そこが天国なのか地獄なのか決めるのは、そこにいる人々の考え方という長い箸の寓話。

インターネットは遥か彼方のビットを取り寄せることができる長い長い箸みたいなもの。

アップグレード

なんらかのデジタルデバイスを利用して身体拡張を行うというのは、SFにはありがちな設定です。日本だとやはり有名所としては攻殻機動隊とかゴクウとかあります。
実際のところ、スマートコンタクトレンズとかは実現に向けて着々と準備をしているようです。
MRとかARとかにしても何らかのデバイス、スマホのモニターだったりVRディスプレイだったりスマートグラスのホロレンズとかそういうものを利用するみたいなんですけれども、脳に直接イメージを送信するみたいなものは、いまのところほぼ無理そうです。
なんでかっていうと、人間の脳がどうやって世界を認知して論理展開してアウトプットしているのかというのは、よくわかっていないからですな。
シナプスがピコポコと化学反応を起こしながらいろんなことを処理しているのはなんとなくは分かるのですが、「どういう仕組で脳が機能しているのか」っていうのは結局の所よくわかっていないようです。

結局、しばらくの間はこの手のインプラント系デバイスというのは、鼓膜を振動させたり網膜に直接映像を投射したりといった人体の認知システムを利用したものになるのだろうなと予想されます。

映画の中では、実際に言葉を発生しないとデバイスとの情報のヤリトリはできないわけで「言葉を思い浮かべるだけ、心の中で唱えるだけ」だと認識できないという設定になっています。

仏教の色とか空とかも考えながら、認知する、世界とつながる、そういうことの不思議を考えたりするのです。

映画の方は、わりとブラックな終わり方で好みが分かれるかもしれませんが、もしかしたら続編もあるかもしれないと期待できます。

グレイから自分自身を取り戻すために、ハッカーのジェイミーがなんか協力したりとか(だってハッキングしたりして興味を持っちゃったりするわけじゃん)
あと敵役のフィックスは実は死んでいなかったとか、ライバル会社のコボルトの陰謀とか協力とかもあるかもしれんし、女刑事のコルテスさんも頭を撃たれたわけではなさそうだったから実は生きていた的な展開もあっても良さそうだし。
なによりもあの終わり方は後味が悪いのでもっと明るい終わり方もあるのかもしれない。

とおもってググってみたら続編の企画があるみたいのなで楽しみです。

シン・エヴァンゲリオン劇場版の感想とか(ネタバレあるかもしれないので、嫌な人は閉じてね)

そういうわけでシン・エヴァンゲリオン劇場版を見てきました。

自分はテレビ放送があった当時はもう社会人になって地元に帰ってきておりましたので、なんといいますか、そろそろオタク的なコンテンツから若干距離を置きはじめてはいたころで、何回か本放送を見たのですがサハクィエルのあたりで脱落してしまったのです。

その後レンタルビデオで最終話まで見て正直「なんだこりゃ?」という記憶が残っていたのだな。
その後、劇場版を見たりしてエバンゲリオンというコンテンツを楽しんでました。

今回の新劇場版もまったく違うものになりそうで「あれでしょ、Qの予告編とかも本編では出ないんでしょう」と思ってたらそのとおりでした。お約束でよかったです。そういうの大事。

実際、エバンゲリオンにハマっていたのは、自分よりも一回り下くらいの年代で、同年代で見ているという人はいなかったような気がします。

さてそんなテレビ放送が終わって25年。

今回のシン・エヴァンゲリオン劇場版は当時碇シンジと同じ年齢だとすると現在39か40歳になっているんだと思うのですよ。

自分はもう今年54になるんですけれども。

まぁこの年齢になって確信するのは、大人とか子供とかって、結局相対的なものでしかないのかなってことですな。

年の離れた人間が二人いたら、若いほうが子供、年取った方が大人の役割をする。

それは相対的なもので文句を言っても仕方がないのだな。

先に生まれたほうが大人になってしまうし、そうなってしまっているからこと大人の方が大人の役割をしないといけないルールになってはいる。

 

あと冷凍睡眠とかオルタード・カーボンっぽい肉体の再生とか、記憶のバックアップとか、義体化が進むと、大人とか子供の概念や役割が変わっていきそうな気がする。

 

ある日、自分の前に現れた子供が曽祖父だったり、自分の娘の結婚相手が、自分の父親だったりする未来もあったりするのだ。

現実問題として、LGBTとかの標準化で、親子関係というものはこれから先あやふやな複雑な関係にほどけていくような気がする。

そんなわけでラストシーンで大人になったシンジくんといちゃつくのはカヲル君だろうかとか思ったら違った。

 

 

 

 

 

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