混ぜるな危険

本文にはなにも関係ないAIに書いてもらったイラスト

 

小川さやかさん『「その日暮らし」の人類学』を読んだ。
今日はその感想を書こうと思う。

その前に最近見た映画だったり、小説やオーディブル・漫画について書こう。
昨年の暮から見た映画や小説で今回の記事に関連するというか発想につながった作品は以下の4つ。それぞれ関連するXへのリンクをおいておきます。

杉咲花さん主演の「市子」

のんさんが朗読する湊かなえの『未来』

 

川上未映子さんの『黄色い家』

usagiさんの漫画『地元最高』

『市子』『未来』『黄色い家』『地元最高』これらの作品について共通に言えるのはどれも

  • ロクな大人がいない
  • 登場人物の多くが貧困層
  • なんらかな犯罪行為が日常的になっている
  • 教養がない、あるいは低学歴
  • 感情のコントロールができない
  • 短絡的で考えが浅い
  • 思考能力が低い
  • 努力をすることができない人間が多い

これらの作品を読んで頭の中に浮かんだこととかモヤモヤすることとかを書き出して整理してまいます。

わかりやすい文章にはまとまっていませんし後日加筆修正もすると思いますのでごめんなさい。先に謝っておきます。

以下、思ったことや感じたこと、考えたことを思いつくままに書き出します。

日本は文化的にもレベルが下がっているのかどうかよくわからない。下がってきているように思うけれども、最近の中学校の教育課程とか見ると、むしろ自分が子供の頃の1970年代よりはかなりレベルが上っているように思う。
例えば素因数分解は昔は中学校3年で習っていたのに今は中学校一年で習うようになっているし。
多分、今の中学生は自分のころの中学生よりもかなりレベルが高い勉強をしていると思う。

時間の使い方が上手い人もいるけど、下手な人もたくさんいる。計画を立てたり実施したり、良い習慣を身につけるために生活を工夫したりすることができないというか、「そういうことをするのは無駄だ」どいう認識を持っている人は結構多い。あまりよくない言い方だけれども「努力についてあまり価値を感じていない」「世の中は所詮運だ」という人はいる。

労働に対する価値観については民族とか人種とかによって違いがあるとかではなくて、それはあくまで個人の性格やその人の置かれた環境によるものだ。
生まれた環境によって(もちろん環境が100%ではない)性質や感情の指向性によって考え方が自責ではなく他責になってしまう人はいる。

他責思考であることが、正しい(あるいは合理的な)生存戦略であるという環境というか状況はけっこうあるのかもしれない。

どうしても努力したり、計画を立てたり、良い習慣を身につけるために何らかの行動を制限したり行ったりすることが苦手だったりできない人が確かにいる。
それは日本だけでなくて世界的に広く分布している。

時間の使い方が下手というよりも、むしろ時間という概念をもっていないまま毎日を生きているような人もいるのではないか。

ものごとを中断したり、なにか目的のために途中で辞めるなどの選択肢をとることができない人もいる。

環境的に集中できない状況に置かれている(常に何らかの脅迫的な状況にあったり、あるいは貧困のために選択肢が極めて少なかったりする)

そういうような不安とか、マスメディアが煽るような日本の貧困化を体現するようなセンセーショナルな事件もあったりする。

で、そういうことを感じているところに、この「その日暮らしの人類学」を読んだのです。

人類ってもともといろんな考え方や行動様式とか習慣とか哲学とかあるいは信仰とかもっていて、

多分、日本で一般に正しいと言われる生存戦略というのは、その戦略が生存戦略として有効であるとされています。

ここで言う生存戦略というのは、例えばアマゾンの「自己啓発のランキング」なんかに登場するようなやつです。

曰く「夢を持つ」「PDCAを回す」みたいなやつですね。

けれども、多くの人は「PDCA、なにそれおいしいの?」っていう状態ですし、目標管理なんてしていません。その日その日をまぁなんとかやりくりして生きているわけですよ。

そこに小川さやかさんの『「その日暮らし」の人類学』が飛び込んできたわけです。

もしかしたら「黄色い家」に出てくる黄美子や花の母親やトロスケ、「未来」の章子、そして「地元最高」のシャネルちゃんや紅麗亜グループの面々の生き方が正解の世界線というのも確かにあるのかもしれない。

なんてことを考えたわけですよ。

その日暮らしの人類学の中で、アフリカで勃興しているサファリコムのM-Pesaについて書かれているのだけれども、このサービスが世界中で使われるようになる未来とか(そう遠くない未来20年とか30年とか)想像すると

想像すると、想像がつかないわけですよ。

ここにAIとかが入ってくるわけですよ。同時通訳とかそういうことが可能になってきて少額決済も普通になって、海外送金とかものすごくお手軽にできるようになったりとか、
とにかくものすごいスピードでいろいろなことが変化していくのは間違いないと、
で、その時、自分はどういう生き方をするのが正解なのかとか、そういうことがわからないのですよ。

 

でもわからないながらも結局は、「今を生きる」しかないわけで、まさしく
Living for today(その日暮らし)な生き方を是とする人が増えていくのかもしれない日本でもとか、思っているところです。

 

マイデーモン

高校生の次女に勧められて昨年の年末からネトフリで見ているドラマがある。
全16話で1月12日現在第13話まで配信中。最終話となる第16話は1月20日に配信予定。

悪魔であるチョン・グオンを演じるのはソン・ガン。ヒロインとなる女社長ト・ドヒを演じるのはキム・ユジョン。

美男美女ですな。この二人を見るだけでも眼福な感じ。

物語も中盤を過ぎ、二人の前世であるとか、チョン・グオンがなぜ悪魔になったのかとか、だんだんと謎が溶けていきつつある。

基本的にはコメディータッチなので怖がりのうちの次女も安心して見ている。
(ソン・ガンが出ているSweet Homeの方はスプラッタなので見てない)

ちなみにこの絵はDELL-Eが描いた「マイデーモン」どっちかっていうと、女の方がデーモンっぽくなってしまった。


何枚か描いてもらったのだけれども、これとかけっこうそれっぽいイメージのような感じですね。

あと、こういう高校生っぽいイラストも出てきたけれども、ドラマの方ではこういうシーンはないです。

 

とはいえ、こういうストーリーはやっぱり作り事なので、実際にやったりデーモンがブサメンだったりするという現実の世界ではいろいろありえないのだろうなと思う。

 

2024年 三日目

元旦に地震、二日に航空機事故、3日に商店街の火災。
2024年が始まってまだ3日しかたっていないのにいろいろなことが起こり過ぎで、この調子で行くと本当になにが起きて不思議ではないと思います。
一日一日を大切に過ごしていきたいし、できるだけにこやかに心穏やかに過ごしていきたいと思う今日このごろです。

そんな折、今日はユナイテッド・シネマなかま16まで映画を見に行きました。
長女がバイトをしているので、黒崎のお店まで送って、バイト終わりに迎えに行くまでのあいだ、時間をつぶすのにちょうどよかったわけです。
久々に黒崎まで行くので自動車のナビが不可欠だったのですが、なぜか行橋の方に場所設定を間違えてしまっていたらしく、さらにナビの地図データの更新が2018年でストップっしており、北九州高速を3回も降りたり上がったりしてしまったので、映画館に到着するのが予定より遅れてしまいました。

ちなみに見た映画は杉咲花さんの「市子」です。

冒頭の20分くらいを見ることができなかったので非常に残念でしたが、その20分がなくても十分に堪能することができました。
とにかく杉咲さんの演技がものすごいです。

市子の存在感がすごい。劇中の市子は存在していない人間なのですが、だからこその存在感があるのです。

人が存在すること、そこにいるということ、社会的に存在しているとか「いることを許されている」とか、普通に生活している上では気が付かないあたりまえの前提がない人がいるということを考えてしまします。

ちょっとしらべると

世界中で400万人以上の人が無国籍状態にあったり、日本国内でもいろいろな問題が起きているということだった。

今後も日本でいろいろな災害が起きるとして、その現場に国籍のない人がいるということもあるだろう。

映画「市子」のエンディングは
「え、結局、どうなるの?」というような終わり方で(たぶんハッピーエンドではなく)「どうしようもない現実」を突きつける形で幕を閉じる。

たぶん幸せになるための、幸せであるための最低条件を満たしていない人というのは、たしかに存在していて、それを「当たり前のこと」であると感じることするない側にいる人間にとっては「関係を断つ」ことでしか、お互いの存在を補完できないのかもしれない。

いろいろなことが世の中にはあって、それは本当に自分が知らないことで、その情報に気がつくことすらないということだってたくさんあるのだと思う。

このことについては、自分の中では答えとか、こうすべきだというような考えは今の時点ではなくて、どうすりゃいいのだろうか、自分はどうしていきたいのだろうか、というようなことを考えて、忘れないで行きたい。

それからもう一本映画を見た。
「鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎」である。

こちらは鬼太郎のお父さんの話。
舞台へ昭和31年の日本
ちなみに鬼太郎のお父さんは「幽霊族」であり、いわゆる妖怪なんだけれども、日本人として結婚していたというようなシーンがある。

でも妖怪なのだから当然国籍はないのだな。だからこその物語になっているのだが、国籍がないというのは、それだけで弱者なのだろうなと思う。

昭和30年代は国籍がない人というのはどのくらいたのだろうか、
戦後の混乱の中で無国籍の状態になってしまった人は少なからずいる。

もしかしたら幽霊族というのは、こういった無国籍の人の寓話であるのかもしれないと考えたりもしました。

実写版コブラ

日本の漫画・アニメーションコンテンツでコブラという左手にサイコガンを持つSF作品があります。 この作品が実写映画化される可能性はどのくらいありますか? また実写化されるとして主な配役は誰になると予想できます?

「コブラ」とは、日本の漫画家・寺田克也によって描かれたSFアクション漫画「スペースアドベンチャー コブラ」のことです。左手にサイコガンを持つ主人公コブラが活躍する作品で、1980年代にアニメ化されたこともあります。

現時点で、実写映画化の具体的な情報は確認できませんが、日本の漫画やアニメが近年盛んに実写化されていることを考えると、可能性はゼロではありません。ただし、具体的なプロジェクトが始まるまでの詳細や確率は予測できません。

実写化されるとして、主な配役については予想が難しいです。キャスティングは監督やプロデューサーのビジョンによって大きく変わるため、さまざまな俳優が候補に挙がる可能性があります。日本の俳優だけでなく、国際的な俳優が選ばれることもあるでしょう。ただし、これはあくまで予想に過ぎませんので、正確な情報は公式発表をお待ちください。

私の意見や好みを述べることは難しいですが、魅力的で個性的なキャラクターが揃っている「コブラ」を実写映画化するにあたって、それぞれの役に適した俳優をキャスティングすることが重要だと思います。

もしジェームズ・キャメロンが監督を務めるとしたら、彼の過去の作品から予想すると、豪華なキャストが揃うでしょう。以下はあくまで予想ですが、考えられるキャスティング候補を挙げてみます。

コブラ役: クリス・ヘムズワース:彼は「ソー」や「アベンジャーズ」シリーズでの活躍が印象的で、アクションシーンでの経験も豊富。コブラの強さやカリスマ性を表現できるでしょう。

レディ役: スカーレット・ヨハンソン:「アベンジャーズ」シリーズでブラック・ウィドウを演じた経験から、アクションシーンにも長けています。レディの魅力や強さを演じることができるでしょう。

クリスタル・ボーイ役: ウィレム・デフォー:彼は悪役や複雑なキャラクターを見事に演じることができる俳優です。クリスタル・ボーイの独特な雰囲気や強さを表現するのに適していると思われます。

ただし、これはあくまで一例であり、実際のキャスティングは制作サイドの判断によります。

寺田克也じゃないですけどね。

AIにコブラを描いてもらったけど、ぜんぜん違う(笑)

結局は昭和の働き方が好きなのかもしれない 「トップ・ガン マーベリックを見た」

オッサン向けの映画だったので、面白く見させていただきました。

ケニー・ロギンスのデンジャーゾーンに合わせて飛び交う戦闘機、オープニングの10分は前作通りの演出とカメラワークで、前作が公開された1986年まで気分はタイムスリップする。

実際、現在55歳であるところの自分のフェイスブックのタイムラインには面白かっただのスカッとしただの称賛の投稿が目立った。

一方、Twitterのタイムラインにはあまり投稿が出てきていなかったりしたので、この「トップ・ガン マーヴェリック」はオーバー50向けの映画なんだろうなと思いました。

下町ロケットとかNHKのプロジェクトXとかが好きな人は見て損はないと思います。

ただ個人的には若い人(20代30代前半以下)にはあまり受けないかもしれないと思った点を考えてみたので書き出してみる。(以下、強烈なネタバレ)

ネタバレなので読みたくない方はここでストップしてね

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  • 50代で独身さらに結婚歴なしのおじさんが主人公
  • ヒロインがオバサン
  • 海軍が企業だとすると相当にブラックな印象になる
  • バブル期に入社したイケイケ社員が当時の気分のままで勝手なことをしている。
    その結果何十億という損害をもたらす
  • 出世を諦めた問題社員が好き勝手なことをしている(出社時のチェックなど、回りもあきらめているのかほったらかしにしている。セキュリティー的に問題があるが放置されている)
  • 過去に同僚が仕事中に死んでる
  • 割とよく仕事中に人が死ぬ
  • 人事権がいい加減でマネジメントが適当なので管理職の職権がない
  • いわゆる「人事権の濫用」がそこかしこに見られる
  • 個人の能力に依存し過ぎな目標と戦略
  • 上司が婚姻関係にない女性と一夜を過ごし、あまつさえ窓から逃亡するという、世間的に問題のある行動をしている
  • 後出し的な不条理なルールによる支払いの強要、同意のない売買契約が正当化される環境に常態化が見られる
  • 仕事のミスに対して腕立て伏せという体罰を強要し、しかもそれが上官の命令ではなく、職場の雰囲気で採用されるという、ブラックな社風(すなわち体罰であるという自覚がない労働環境)
  • 休日に社員を集めて運動会
  • 派遣先の機械設備や備品が古かったり中古だったり
  • そもそも経営目標が違法なのでは?
    いきなり巡航ミサイルを打ち込んだり予告なく戦闘機で空爆するのは国際法的にアリなのか(コンプラ的にそれはいいのか)
  • マネージャー的立場にある本人が最終的に実務を行うのは組織運営として間違っているのではないか

なんてことを考えたりしましたが、そういう細かいことは気にしないで楽しむのが正しいので、ファンタジーとして鑑賞しましょう。

会社経営者としては社員に見ることを勧めたりするといろいろ慮るところがあるので、控えておこうと思います。

隣で「PLAN75」していたので今週中に見に行こう。

 

アマゾンプライムとZ級ムービーの話

映画のカテゴリーで「作品の存在そのものを楽しむ」というふうに個人的には解釈している「Z級ムービー」というジャンルがある。

B級ホラーとかB級映画というレベルではなく、もうなんというかスタッフが作りたいから作っただけで、観客なんて不必要というか、作品を世に送り出すことそのものが目的で、作ったら跡は見てもらおうと、誰一人見なかろうといっさい関係ない!みたいな映画なのだ。

古くはアタック・ザ・キラー・トマトとか死霊の盆踊りとか、宇宙から来たツタンカーメンとか、劇場で見たら
「金返せ!」と叫ぶこと必須の映画なのだ。

そりゃ映画館だとA級もZ級も同じ料金ですから納得できませんよ。

しかしながら今はサブスクの時代ですよ。

何本見ても料金はいっしょなのだから、Z級を見てもまぁいいかっていう気持ちになるわけですよ。

もちろん鑑賞に費やした時間という貴重な資本は消え去ってしまうのですが、なんというかアイデアというか発想というか、独特で自分がまったく思いもよろなかった角度からの演出であるとか、創意工夫や創造のための熱意のようなものに触れることが出来たりするのです(気がするだけかもしれませんが)

で、この連休中に見た「必殺!恐竜神父」という映画がものすごくZ級で良かったです。

恐竜のきぐるみがあまりにもちゃちすぎたり、特撮がほぼなかったり、字幕がすごかったりするのですが、ところどころ画面の構成とか、音楽が案外良かったりなどするので、

なんとなく自分も作れるんじゃないかと勘違いさせてくれるので、クリエイターになりたい人のチャレンジのハードルを下げると思うし映画界の裾野を広げてくれると思うので、こういう映画を大事にしていきたいと思うのであった。

Z級の映画には珍しくヒロインの女優さんがなかなかの美人さんだったような気がします。

地球外少年少女が良かったのでもう一度いろいろなSFを復習しておきたいと思ったので書き出しておく

新スター・トレック ベストエピソード 浮遊機械都市ボーグ
アバター
電脳コイル
オルタード・カーボン
カルロ・ロベッリの量子論
重力波について
ハイデガー「存在と時間」

21世紀のSFの素養としては量子論とか「時間が存在しない」こととか
あるいは「未来と過去と現在は同時に存在している」とか、「光よりも早い『現象』がある」とか「共有される意識」とか「言語以外のコミュニケーション」とかそのあたりを面白く興味深く伝えると面白いのではないか。

命題として人は自分の感情を伝えるために「言葉」に抽象化して伝えているわけなんだけれども、気持ちが伝わるかどうかちうのは実際のところはよくわからない。
「私はとても悲しい」というその人が感じている気持ちは、文章や言葉にして伝えるほかないのだけれども、

例えば「私はとても悲しい」というのを色彩の変化や光の明滅によって伝えることがVRの世界なんかでは可能になるのかもしれない。

言語という音声信号で世界を認知するのでなく、光や色の違いをそのまま認識する記憶する伝達することができると、世界の認知の仕方だって変わっていくのかもしれない。

わしら人類は哲学するときは「言語=音」を利用するほかないのだけれども、この広い宇宙には「言語=光」で世界を認識・認知することのできる、認識・認知している存在があったりするのではないかと考えると面白い。

 

TAU

映画「TAU」をネトフリで見た。

投資家に追い込まれたAI開発者アレックスが、人口知能プログラム「TAU」を完成させるために人間の脳にチップを埋め込みそこから直接アルゴリズムみたいなものを抜き出すことにする。で、チップを埋め込まれて吸い出された人は死んでしまうけどまぁしょうがないよねっていうことだ。

それって人道的に倫理的にどうなんだよ、犯罪じゃないの?ということなんだけれでも、アレックスは追い込まれているわけですよ。

「期限までに何らかの成果を出さなければ君は一文無しだ。何もかもなくしてしまうことになるんだよ」

ってなことを投資家らしき人から指摘されるわけです。

そこでアレックスは考えた。
行方不明になっても誰も気にしない身寄りのない人間を利用することでリスクが減らせるはずだと。

でアレックスに狙われて拉致られたのが娼婦をしながら客のお金を盗んだりしている底辺人生を送っているジュリア。

ジュリアはAIのTAUとコミュニケーションをとりながら、なんとか脱出しようとするわけだよ。

「この状況を打破するためにTAUを説得するしかない」

さて、どうやって説得する、アレックスをどうする?

人間とAIをはわかりあえるのか?

みたいな感じでストーリーは進んでいくわけです。

うむ、けっこう面白そうな映画ではあるよな、全体のスジとしては面白そうだし、原作の小説があるのであればぜひ読んでみたいなと思った。

多分、追い込まれたアレックスの葛藤とか、ジュリアとアレックスの会話の駆け引きとか、TAUの恋心とかジュリアの母性本能とか友情みたいなことが織り込まれたいたりして面白いのではなかろうかと思う。

いかんせん予算の問題なのか尺も短く、アレックスがどんな人間なのか掘り下げられていないので物足りない部分もある。というかそのあたりの描写がもっとあったら面白かったんじゃないかなと思う。

「敵の手下が自分の味方になる」という設定はけっこうありがちなんだけれども、アレックスがTAUにやってるお仕置き?とかなんだろう、言うことを聞かないプログラムに痛みを与えるとか、
天才プログラマーだったら、そんなロジカルに破綻した設計はしないだろう、とか違うツッコミを入れてしまうのですよ。

AIのアルゴリズムとかディープラーニングとか、そういうことを専門にやっている人から見るとツッコミどころ満載なんだろうなと思ったり。

たぶんもともとは連続ドラマの脚本だったのかもしれない。

全8話くらいだと、けっこうバランスよく楽しめたのではないだろうか。

第一話の後半で誘拐されて、
話の中盤までは、なんで誘拐されたのかわかんない状況で、牢屋から逃げ出すためにどうするか、
アレックスとのからみ、そしてTAUを説得するためにどうする?というような合計8時間ぐらいのドラマだったらもう一回見たい。

地球外少年少女

ネトフリで全6話一気に見ました。

「地球外少年少女」

電脳コイルの世界と少し重なりのある未来の話という感じがしまして、面白かったです。(電脳メガネという固有名詞が作中で登場するので)

メタバースというキーワードがバズっておりますが、電脳コイルや今回の地球外少年少女ではARやMRの技術の方が世界を担っているような感じで描かれています。

量子力学
重力波の発見
AIの発達
量子コンピューターの実用化
ナノテクノロジー

今はまだ登場していないテクノロジーが出揃ったら人は時間を超えることだってできちゃうのかもしれないなぁという予感を感じます。

なんというかSF的世界観がもう一段階上の次元へ上書きされるような感覚を覚えました。
ドラマの舞台は2045年、企画したときは2016年だったので、約30年先の未来のお話になります。

実際にある企業をモジッた広告や製品・サービスが沢山登場します。脳内で実際の企業に変換するのも楽しかったです。

たぶん、もう一回見ると思います。

 

「空白」

ネトフリで古田新太さん主演の映画「空白」の配信が始まったので見ました。

 

「ヤバすぎる親父の怪演に唖然…」なんて書いているからホラーとかサイコパスっぽい映画なのかなと思っていたんですけど、ぜんぜんそういうのではなくて、個人的には救いのある映画だなぁとそういう印象でしたよ。

以下若干ネタバレもあるかもしれないけれども思ったことなど。

アンガーマネジメントという言葉が出てきたのはここ最近なのかな。

怒りの感情をコントロールするというような意味で、自己啓発本もたくさん出ております。

嫌なことがあったり理不尽なことがあったり、もしかしたら、そういうことがなくてもストレスの多い現代社会ですので、怒って感情的になって怒りを爆発させて、かえってややこしいことになってしまった、というようなことが経験として共感する人は多いのだろうと想います。

怒りを感じる、怒ってしまうのは、その理由はなんなのか?

っていう質問に対して、自分が答えるというか、僕の考え方としては

「怒りを感じるのは、自分の努力不足を正当化するため」

っていうのがあるんだろうなと、そういうふうに考えています。

なんでもいいんですけれども、「こんなことは許されない!」とか「こりゃひどい許せん!」「何考えてんだこの野郎!」というような怒りの感情が出てくるときに、

「この状況に陥らないために、自分がもっとやるべきことがあったんじゃないか?」というような質問を自分に投げかけるわけですよ。

そのときに「いやどう考えても自分がやったって、どうにかなことではないだろう。」って思えると何故か怒りがおさまるわけです。

でも怒りが収まらないこともなります。

その時は多分、自分がやるべきことをやってない。

「環境のせいだ!この○○が○○だからダメなんだ!」みたいに怒りが持続し続けているときは、「その環境を選んだのは自分で」その環境から抜け出すための努力を自分はしてなかったんだ、という現実をごまかしているんだなぁという気持ちが、そこにあって、

で、そういう気持ちに自分が気がつくと、怒りが収まったりするのであった。

うーん、文章うまくまとまらない。

パワー

Verified by MonsterInsights