勉強とか学習とか考えるとか

「りんごは果物だ」「果物は甘い」 よって 「りんごは甘い」
「ぶどうは果物だ」「果物は甘い」 よって 「ぶどうは甘い」

というような前提があったとして。

「みかんは甘い」だから「みかんは果物だ」
というのは学習から得られる成果としての「結論」なんだな。

人は、論理展開を学習することで予測を立てたり、答えを導いたりすることができる。

けれども、「〇〇は果物だ」「果物は甘い」よって「◯◯は甘い」という論理だけだと、その事例をいくつ積み重ねたとしても
「砂糖は甘い」だから「砂糖は果物だ」という推論も受け入れてしまうし
「砂糖は果物ではない」だから「砂糖は甘くない」なんていう論理も成り立ってしまう。

勉強はできるんだけど、賢くないっていうひとは、論理展開が一種類とか、多くても3つくらいなので、ちょっと複雑な状況を与えられるととんでもない結論を導き出してしまったりする。

勉強がたりないな、知識が足りないな、なんて考えて、自分なりの勉強や学習を積み重ねるのだけれども、

「すいかは甘い」「レモンは酸っぱい」「桃は甘い」という知識をやパターンを学習して蓄積していったとしても、帰納法と演繹法だけでは、その間違いから抜け出せないのだ。

「トマトはどうなんだ」という問いもあるし。
甘いトマトもあれば、甘くないトマトもあるし。

 

「そもそも甘いというのはどういうことだ?」
とか
「果物とはどういうものなのか」「甘いの他にもなにか定義があるのではないだろうか?」とか、

問そのものを見直したりするのが、すなわち「考えること」なんだろうなと思う。

勉強は大事なんだけれども「考える」というのは、あんまし学校ではやっていないし、むしろ「考えてはいけない」というようなことが多いのではないだろうかと思う。

学校の成績がよかったり、いい大学にいってたりするのはたしかに勉強が出来てかしこいのであるかもしれないけれども、

「考える力がない」というのはよく聞く話だったりする。

 

しで、自分もあんまり考えていないし、なんでも人間の脳というのは「できるだけ考えないようにする」という方向へ向かうようなのだ。

なにも考えなかったら、どんどん「考えない方」へ行ってしまうのだということらしい。

よく考えていきたい。

 

11/22/63

「11/22/63」というドラマがある。
原作はスティーブン・キング。

タイムスリップした高校教師が1963年のJ・F・ケネディの暗殺を阻止をするために・・・

というようなあらすじなんだな。

なんで関心を持ったのかっていうと、ロシアのウクライナ侵攻とか、なんとなく時代的に1960-70年代のような雰囲気や流れがある感じがしたんだな。

たぶん、冷戦の第二期は2004年頃から始まっていて、今はその真っ只中くらいの認識でいいかもしれない。2050年くらいまでこの冷戦#2は続くんだろうなと言う感じ。

人は変わる部分もあるけれど、変わらない部分もあって、
そのドラマの中では(ネタバレします)

 

結局ケネディは暗殺されたことになるんですけれども、それはそれで、いい時代を作るための礎というか、そういう流れの中で、世の中は良くなっていく、今を結局は受け入れることしかできなんいんだよと、そういうことを考えてしまうわけですよ。

過去、いろいろな歴史の潮流の中で、志半ばで命を失う人がいたわけなんですけれど、残された自分としては、ちゃんと勉強して投票にも行こうってことです。

なんというか、誰かを不幸にすることで世の中をよくすることはできないです。
誰かを幸せにすることでしか、世の中はよくなんない。

あと歴史を作るのは逝ってしまった人ではなく、残された、生きている自分たちだって自覚を持ちましょう。

若い人に言いたいのは、これからの世の中を作っていくのは、今、生きている君たちなんですよ。

誰かを責めたり責任を追求したり、なにかのせいにしたりするのではなくて、自分がどうするのがいいかしっかり考えて行動していきましょう。

自分はもう50スギのオッサンなので、あんまり力にはなれないと思うのですけれども、なんというか、もっと世の中を楽しく、面白くしていってほしいです。

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