ラグナロク

今の所シーズン1と2があって、シーズン2の第2話まで見終わったところです。
ノルウェーのテレビドラマになります。

ノルウェーとか北欧の映画ってあまり見たことないです。

北欧の映画といえば「フィンランド式残酷ショッピングツアー」「レイキャビク・ホエール・ウォッチング・マサカー」くらいしか見たことがないので、あんまり参考にはならない感想ですが、やはり高校生にとっては、環境問題に対して正面切って主張するというのは、なんか違う感というか、「別に自分が主張しなくてもいいんでない?」もしくは「そういうのを熱く語るのって、イカスね、ヒューヒュー(すこし小馬鹿にした感じで)」というのは、どの国も共通なのかもしれない。
環境問題は自分にとっても大事なことなんだけれども、じゃあ実際になにが出来るんだよちっぽけな自分に、という子供の立場というか結局は何もできない自分。

そういう中で転校生であるところの主人公のただ一人の友だちになってくれた女性が「事故死」してしまうわけだけれども、彼女は町を牛耳っている企業の環境問題をYou Tubeで配信したりしていて、警察もまともに調べないしなんかおかしい、どうなってんだよ、という感じで話が導入されていくわけです。

環境問題とか、長年の積み重ねで大きくなった問題というのは、例えばその悪い状況になるまでに100年の年月が必要だと、それを元通りにしようと思ったら、その3倍の300年くらいの時間が必要だったりする。
いろいろな問題で時間を掛けて積み重なった変化というのは、なかなか元には戻らないわけで、何世代もの努力が必要だったりする。

そういうことを考えながら見るのだ。

 

電気自動車 2035

日本政府は脱炭素社会を実現するために純粋なガソリン/ディーゼル車を新車販売禁止にして電気自動車に切り替えていくという方向をしましているらしい。

2035年というと14年くらい先の未来の話ですよ。
約15年と考えるといいのかな、

事前の変化は10年後くらいにはほぼほとんどの自動車が電気自動車になってるくらいの考え方なんでしょうか?
じゃぁどうなんだろうか?10年後には中古自動車がすべて不良在庫というか負債というかゴミになっちゃうということなんでしょうか?
もちろん「自動車」そのものの中古市場がなくなるわけではないのだろうけれど、この先10年の間に、在庫している自動車をいい感じに処分できないと大変なことになっちゃうのではないかと思ったりするのは、素人考えなんだろうな。
そのあたりのことは中古車業界の人はちゃんと考えているに違いない。

でもまぁそういう事情なら、早めに電気自動車に買い換える必要があるのだろうとは、思う。古い車を処分するにしても、ガソリン車が走ることのできない世の中になってしまうと下取りに出すとか売るとかそういうことはできないであろうし、不用品として処分するにもけっこうな費用がかかるに違いないのだ。

でも実際に化石燃料自動車というのは、トータルコストではぜんぜん電気自動車より安いわけで、その価格差がなくなるかあるいは逆転していしまえば変わってくるだろうしワイヤレス充電とか無線送電とかのブレイクスルーがこの20年の間に起きちゃうかもしれないわけですよ。

 

Unity

Unityぜんぜんいじれていない。

https://twitter.com/rumiga0/status/1351607123273138177

世の中どんどん進んでいるので、もうおぢさんついていけないよ。
でも頑張ろう。なんとか時間を作るのだ。
お皿洗ったり、洗濯物をたたむ時間をもっと短縮するのだ。

 

Word使っていたら一行目がずれる

ヘッダーが悪さしていたみたいです。


右クリックして「レイアウト枠の書式設定→文字列の折返し「しない」もしくは「レイアウト枠を削除」することで、1行目がずれるということは解除されました。

Twitterで教えてもらいました。感謝いたします。

 

仕事ができる人とできない人の割合

仕事ができる人とできない人、どちらのほうが多いのかっていうと、そりゃもうできない人の方が多いのだろう。
パレートの法則というのはけっこう有名で。例えば仕事が「できる」「普通」「できない」に分けるとそれぞれの割合が2:6:2になるというのは有名な話です。
つまり仕事ができるなぁという人は全体の2割程度で、あとはまぁまぁか仕事がまったくできないのだ。
よくあるビジネス書とか経営の本とかマネジメント本とか自己啓発系の本というんは、結局は仕事が「できる」2割に対して書かれていて、実際に多数派であるできない人たちにはあんまり役にたたないのではないかと考えている。

仕事ができないひとがほとんどなのだと想定しながらでないとBtoBのビジネスというのは実はうまく動かないのだと思う。
案外人は合理的に物事を判断しない(判断できない)し、いいかげんでめんどくさがりなのだ。
仕事というのは、そういう人の「めんどくさい」という部分をカバーするという機能が大きな魅力であったりする。
特に生産財系の段取りにおいてはこの「めんどくさい」というのは数値化が難しいのでビジネスモデルとしては仕組み建てがむずいのだと思う。

特に職人さん的な仕事をしていると、雑務とかちょっとした打ち合わせによる中断とか、精神的に気が付かないうちにゴリゴリと精神を削ってしまうような事象というのは、できるだけ外注化したり、お金を出してでも削除したりしたほうがいい案件だったりする。
精神的に中断というのは、ものすごいストレスになるのだ。
そこにコストを掛けないようにしないといけないのだけれども、手段を安くしたり環境に金をかけなかったりすると、案外、精神的にストレスが溜まったりするのではないかと思う。

段取り良く仕事を進める、いわゆる段取り八分という言い方もあるけれども段取り良くなるための面倒くささで、結局は追いかけられるような仕事の進め方しかできなかったりするのが人の常なのではないだろうか?

めんどくさいけれども代わりにやってくれる

そういう部分にこそ、ビジネスの種は転がっている。