子どもドメイン

実はけっこう前に子どもたちの名前でドメインを取得していて、この休みにそこにWordPressをインストールして運用させることを企んでいるのです。

ITについて詳しくなりたいと思ったら自分のウェブサイトを持つのが一番近道だと考えているので。

自鯖にFTPでPHPをインストールして・・・みたいなところまではそのうちできるようになってほしいとは思うのですが、とりあえず自分でテーマを変えたりとか、ブログを書いて情報発信するとか、そんなところまでしてもらえるとありがたいなと考えています。

インスタとかツイッターのアカウントも連動させたりするのいいかもしれない、そういうのをそのうち自分でググってできるようになってほしいなと思うのですが、そういうのはまだ先になるのだろうか?

とりあえずアップルIDはすでに持ってる。

グーグルアカウントも作ってるのでつかってもいいことにする。

ファミリーメンバーとかに追加したりとかもするよてい、結構事前に用意しておくほうがいいことが多い。

パソコンはホントは個別にあったほうがいいような気がする。

 

マスターしてほしいITスキルとしては以下

・自分のメールアドレス・パスワードの管理。

・FTPも使えるようになってもらう。

・簡単なアプリのインストールも。

・窓の杜で必要なフリーソフトを検索してインストールできるくらいのスキルを身につける。

・それなりのネットマナーやコミュニケーション能力、インターネットの戒律は身につけてほしい。

・炎上回避スキルとか、スルー力も(こちらは時間がかかるとは思う)

プログラミング畑に行ってもらえるといいなとは思うけど、どうかなーあんまり興味なさそうなんだよなー、GitとかUnityとか行ってほしいなー、 ちょまどさんとかに興味もってくれんかなー。

女子高生が「C#とかPHPとかPythonとか教えて下さい」とかいったら、なんというか教えてくれる人が群がってくると思うのですよ。

あと「PCはMacとWinどちらがいいですか?」などでスレッドをナパームで炎上させたりして眺めたい

 

 

 

昭和の日

ええ、以前は「天皇誕生日」っていう名前だったんですよ。

で、しばらくの間は「みどりの日」っていう名前で、ちょっと前に「昭和の日」っていう名前に変わりました。

今年は水曜日だったので連休にならず、中途半端な感じになってしまって申し訳ありません。

祝日として恥ずかしいです。

GWの一日目として、役割を果たしきれていないなと思われていると思ってました。

ところがなんとなく雰囲気が違うような。

全国のお子様たちは、なんだか随分と長い休日で「今日が祝日だっていうことを忘れていた」なんて声も聞こえてきます。

5月の2日3日も営業予定だったりする企業さんもいるんですよね。

ゴールデンウィーク、長い企業では4月25日から5月6日とか10日までやるところもあると聞きます。

4月の25日が初日だとすると、4月29日の立場がまた危うくなる気がしないでもありません。

そもそも「昭和の日」ってなんなんでしょうか?「明治の日」とか「大正の日」とか「平成の日」とかないのに「昭和の日」だけ残す意味がいまいちわかりません。

祝日法の定義だと「激動の日々を経て、復興を遂げた昭和の時代を顧み、国の将来に思いをいたす」ための日だということです。

昭和がどういう時代だったのかしっかりと勉強して反省して、将来のことをしっかり考えましょうね、

そういう日にしなくてはいかんのです。

本とか読んでますか?まんが日本の歴史の近代史とか読むだけでもいいのではないでしょうか?

あと映画ですな。

やはり「この世界の片隅に」はいいのではないでしょうか?

そんでもって実写版の「夕凪の街 桜の国」も見るのはどうでしょう?

あとは大島渚の「少年」とかね。

大島渚さん、すごいっすよ。なんかもう難しいですけど。

いろいろと今見ると古いかもしれませんけど、昭和の日なので、そういうのもいいかなと思います。

 

反ワクチン派は主流になるのだろうか?

わかりやすく噛み砕くことはいいんだけれども、そのあと日本感染症学会のサイトを実際に読む人なんてほとんどいないのだ。

物事を二分してどちらか一方を叩くという手法はわかりやすいけれども、極端に走りがちだということは心にとめておきたい。

世の中にはいろいろな立場の人がいて、守るものがいろいろある。

自分にとって大事なものが、ある人にとってはそうでもなかったり、逆にある人にとって大切なものが自分にはピンとこなかったり、そういうことは本当に多い。

学校とかお役所仕事というのは、商売と違って「リスクを取る」という発想がとれない。

「リスクを避ける」が基本だ。

なんでかっていうと「リスクを避ける」ことで価値を維持することができるけれども「リスクを取る」ことで価値を高めることができないからだ。

営利が目的じゃないからです。

だから基本的に現場の戦略としては「リスク・ゼロ」に流れがち。

「なにか問題が起きたらどうするんだ」という声に対して反論できない。

 

お役所仕事というのは自らが責任を取るのが業務ではなく「責任を取る部署を明確にする」ということです。

 

普段の公共工事にしても仕様書だの承認図だの認証証明だのミルシートだのやたらと書類を提出させるのは「責任者は誰か」を明らかにするためで、役所が責任を取るためにしているわけではありません。

ある建物の設備でなにか問題が起きたときに、その原因になるのは、故障箇所の部品を作ったメーカーなのか施工業者なのか、はたまた設計事務所が間違っていたのかを明らかにして、なにかあったらそいつに責任をとってもらう。役所は自分では責任は一切とりません、そういうのが仕事です。

短く言うと

「責任の所在を明らかにする」というのお役人さんの仕事です。

ちなみにWHOをはじめさまざまな国際機関の仕事も「責任の所在を明らかにする」ことであって「自らが責任を負う」ということはないと考えておいて間違いないです。

だから「◯◯は責任を取れ!」とか怒ってもしかたがないと思っています。

今は不確定要素が多すぎて誰も責任を取れない状態です。

そういう状況にあるときに、お役所仕事の基本的戦略は

「積極的には動かない」ということになります。

そういう時のために市長さんとか政治家の人がいるのです。

いろいろ大変だと思います。個人的には頑張ってらしゃると思います。

いろいろ世の中変わっていくのだろうなと期待しております。

 

世の中の動きを予想するときは

「こうなればいいのに」とか「こうするべきだ」みたいなことを極力排除して考えるようにしています。

大きな流れみたいなものは自分でコントロールできることではないし、自分の行動によって流れが変わるなんてことはありえないわけです。(もちろん自分が総理大臣だったり大統領だったりすれば話は別ですが、一平民ですので)

世の中の動きは川の流れですよ。コントロールはできないけれども、どういうふうに流れていくのか川がどうなるのかは俯瞰して見るしかないです。

「こうしたほうがいい」ではなく

「こうなるかもしれんから、自分はアレをやっておこう」

「もしかしたら、ああなることも考えられるから、自分はこっちへ行こう」

という感じで、自分で決められないことは「全部状況」「前提条件」として受け入れる。

そのうえで、やれることをしっかりとやっていくしかできないようねぇと諦観することしかできないです。文句をたれたり怒ったりする暇があったら、自分が何をすることが一番いいのかを考えて、実行したほうがいいです。

それにしても、世の中のいろいろな流れを見ていると、なんか揺り戻しが気になります。

コロナ騒動が収まってから、

「ロックダウンはやりすぎだった」

「コロナウイルスなんてなんてことはなかったんだ。」

「ワクチンなんか必要ない」

みたいな世の中になったりしたらどうしようかなとか思う。

杞憂に終わればいいんですけどね。

 

「accountability」と「responsibility」

「責任」ってなんだろうか?

「あの人には責任感がない」「少しは責任を感じたらどうなんだ」「ちゃんと責任とってね」なんていい方をする。

責任ってなんだろうか?

義務を果たすってこと?人にはやらなければならないものがあるらしい。

でも絶対に100%その人でなければならないことなんていうのはないのだろうなとも思う。

だから少し条件をゆるくすると、「期待に応える」ことなのかなと考えてみる。

言い換えてみる。

「あの人は期待に応えない」「少しは期待に応えたらどうなんだ」「ちゃんと期待に応えてね」

うん、意味が通じる。

他にも責任ってなにか違う言い換えの仕方があるだろうか?

「義務を果たす」「約束を守る」「契約を執行する」

「あの人は義務を果たさない」「少しは義務を果たしたらどうなんだ」「ちゃんと義務を果たしてね」

「あの人は約束を守らない」「少しは約束を守ったらどうなんだ」「ちゃんと約束を守ってね」

「あの人は契約を破る」「少しは契約を守ったらどうなんだ」「ちゃんと契約を執行してね」

うむ、それなりに意味が通じるし、不自然さはないような気がする。

ところで「責任」という言葉を英訳すると「accountability」と「responsibility」という2つの単語が出てくる。

「accountability」は「結果に対する責任がある」

「responsibility」は「行動する責任がある」という違いがある。

上のように言い換えたときに、「accountability」と「responsibility」どっちなんだろうか?みたいなことを考える。

「責任を果たす」と「責任を取る」だとどっちが「accountability」で「responsibility」なんだろうかとか、そういう違いがあるのかしらなんてことを考える。

普段使っている言葉の意味をちゃんと正しく使えているだろうか?

相手は自分と同じ定義でつかっているだろうか?

たとえば「責任」という言葉一つであっても、

「私はちゃんと責任を取る」

「あなたは無責任だ」

というような言い合いがあったときに、お互いが使っている「責任」が微妙に違っている場合がある。

一方は「契約を守っている」一方は「義務を果たしていない」という場合はどうしたって平行線のままだ。

 

実は多くの言葉はけっこう曖昧で、白黒はっきりしていないものばかりだ。

誠意とは努力とか、その人が使っている意味と、自分が受け取る意味は違うことが前提にしておいたほうがいい。

「4月の君、スピカ」

娘が見るというので、見た。

あれですな、50を過ぎてこういう映画を見ると、なんというか、人生長いのに17やそこらで、一生愛するだ、君が運命の人だみたいなノリの映画を見ても、なんといいますか青さというか浅さみたいなものしか感じることができず、

「あぁ、自分はもうあのころのトキメキを感じる資格はないのだな」と一抹の寂しさのようなものを感じるわけですよ。

若い人が妊娠したりとか、高校生でしてしまうのって、その当時は純愛みたいな感じなんですよ、それはまぁわかる、学生の頃、まぁ大学生くらいまでならなんとなく、愛してるんなら赤ちゃんで来ちゃってもOKみたいな感じはわかるんですけれど、まぁおじさんもそんな感じだったような気がするし、当時は。

でも50年くらい生きていて、結婚するまでに何人かの人と付き合ったり別れたりするのを重ねると、

なんというか、高校生くらいで「お前は俺のもんだ」とか言ってる男はなんというかガキであると、子供であるというか、その年で働いて稼いでもいないのに、そういうセリフを吐くのは、なんというか、底が浅いというか器がちっちゃいというか、器がむしろないようにしか見えない。

なんというか、若い人は、恋しないと死ぬとか、彼氏彼女がいないと不幸、とか、恋人がいない人生はありえないとか、なんというか「恋愛してる=私の人生成功」みたいな感覚があるかもしれませんけど、それ違うから、勘違いですから。

人生長いですよ。特に今十代の人は100歳まで生きるから、人生の二割も終わっていないうちに自分の人生のゴールを決めるの早すぎるから。

しかも20代までの人脈というか人間関係なんてめちゃくちゃ狭い範囲ですから、その範囲内で出会っただけで伴侶的な相手を決めるというのは、早すぎですのでなんというか、そういう恋愛至上主義的は映画はエンターテイメントにとどめておいたほうがいいのでないかとジジイは思うのであった。

それにしても福原遥さんは可愛いですな。

「羊とオオカミの恋と殺人」見落としていたので、早く見たいな。面白そう。