土曜日は休みだったり休みでなかったり

金子商会は土曜日も営業しています。

配達や店頭応対、電話応対などの業務は通常通り変わりません。

最近は土曜日休業の設備工務店さんも増えてきましたし、土曜日は工事をしないという現場も見かけるようになってきました。

そうはいっても土曜日に施工工事をされるお客様はいますので、店舗は開けておくわけです。

ただし、フルで人数が必要なほどお客様が動いているわけではないので、人数を半分にして、つまり金子商会は今現在8人の会社ですので4人ずつ週毎に交代しながら出社しています。

自分の場合は、今日は出社ですが、先週24日の土曜日は休日でした。

つまり隔週土曜日はお休みとなります。

それに合わせて金子商会では平日交代で一名ずつ休日を取るようにしています。

月曜日はAさん、火曜日はBさん、水曜日はCさん、木曜日はDさん、金曜日は予備日で全員出社。

次の週の月曜日はEさん、火曜日はFさん、水曜日はGさん、木曜日はHさん、そして金曜日は予備日、

という感じです。

それから祝日も午前中8時から12時まで2人ずつ交代しながら当番制で出社して開店し店頭応対のみですがやっています。

盆休みやら正月休みやら合わせて、年間休日は125日といったところです。

今月は僕も12日と26日が休みだったので、10,11,12の3日間と24,25,26の3日間が三連休でけっこうのんびりできました。

工事現場が土曜日休みが当たり前になったら、隔週土曜日から毎週土曜日休みにしつつ、さらに平日休日も続けていって、年間休日160日にするのが、5年後の目論見です。

金子商会は給料はそんなに高くないので、休日は多く、そして残業は少なく(月に3時間以下)でやっていきたい。

それにしても土曜日は忙しい日と暇な日の差が激しい。

この前出社した17日の土曜日は、ほとんど注文の電話がなくて、午後からの配達もなくて、一日の配送時間が85分だったのだが、今日は320分である。

第1土曜日だからとか第2土曜日だからとか週末だからとか、11月だからとかではなく、単にお客さんの現場工程の重なり具合に左右されるだけで、こちらでコントロールできるものではないのだ。

だから土曜日は基本的に予定を入れていない。

配達があれば配達するし、なければ本を読んだりするだけだ。

今日は本を読む時間がまったく取れなかった。

ルーチンチェックとか予定の構築とかの時間まで配達時間がはみ出してしまったので、5時に帰る予定だったのだが、6時に帰ることになった。

まぁブログ書く時間がとれなかったので、これを書き終わったら買えるんですけど。

 

 

予防接種

近所の病院までインフルエンザの予防接種を受けにいきました。

仕事場から歩いて1分、問診票を書いて、書き終えた頃には呼び出されて注射を一本打ってもらったわけです。

代金3500円を支払って、歩いて事務所まで帰ります。

たぶん10分かかっていないです。

テレビのニュースなんかだと、予防接種の受付が終わってしまったとか、定員に達したとか、伝えているみたいなんですけど、

自分の場合は予約もなにもせず、行って打ってもらうだけという、それだけのことでした。

 

転職とか引き抜きとか

ぼんやりと考えていることなんですけれども、会社と従業員のいわゆる「雇用関係」について思うこと。

終身雇用がなんかなくなってしまったのは、企業や業界の成長期というのが終わってしまい、昇進とか昇給がけっこう固定されていたり、企業そのものの寿命が尽きてしまったりとか、原因があるのだろうかなと思っています。

例えば1960年代設立の会社っていうのはけっこう多くて、家の会社も設立は1967年なんですよ。

で、周りを見渡すと創業60~90周年という会社はけっこう多いです。

というか生き残っている会社はけっこうそのくらいの年令の会社が多いです。

で、60年代に創業した会社というのは、日本の高度成長期に合わせて、実際、なにもしてなくても日本市場の規模の増大とか人口の増加に合わせて成長して行けていたのだと思います。

これという変化や成長を指定なくてもマーケット自体が大きくなってたから、特徴的なことや経営理念や戦略がなくてもけっこう会社が成長できたわけです。

1960年に二十歳で就職して、60歳になる40年後の2000年まで務めるという終身雇用制度がうまく言ったのは、なんだかんだ言っても人口が増えて市場(つまりは購買者)が大きくなったからこそ成り立ったと考えています。

で、時代は2020年なんですが、

下関なんかはもう毎年のように人口が減ってきてまして、もうこれは事実として変えられない動きなわけです。

2050年には、バブル期に30万人いた人口が20万人以下になってしまう、その上高齢者が割合として多いということですよ。

そうなると終身雇用というのは、なかなか難しい。

1960年代→2000年 の成長カーブと同じような右肩上がりのマーケットというのは下関には存在しないわけです。

 

でまぁ、優秀な人材は引き抜かれたりとか転職したりが普通になるのかなと思っているのですが、

例えばうちの会社の場合、金子商会に勤めて新人研修やら商品知識のOJTやらで3年から5年位がすぎるとけっこうな知識が身についたり、あるいはビジネスマナーというのもそれなりに身についたりすると思います。

そうして手塩にかけて育てた人材を、取引先に引き抜いてもらうという戦略というのもありかなと考えたり。

 

会社の経営理念や存在意義、あるいはキャリアアップシートなどを明文化して、誰にでもアクセスすることで、取引先、つまり金子商会でいえば仕入先のメーカーや商社さんが、引き抜くというかヘッドハンティングするのもありなのかもしれないと考えたりしています。

で、何年かがすぎると

  • 「あの会社の社員であれば間違いない」
  • 「あの会社の事務員さんは有能だ」

という評判が立ったりして、仕入先の所長さんが、

「お宅の事務員さんをください!」

というような話になったりして。

「えー、ただじゃやだなー」

「じゃあ○○万円契約金を払うよ」

というような会話がなされつつ、なんと申しますかプロ野球の金銭トレードのような転職のありかたというのが普通になっていくのかもしれない。

ここでいう契約金というのは、その社員を育てて、これから会社で利益を出してもらうつもりが、いきなり転職を打ち明けられて昇進している零細企業の経営者がいただくものなのですよ。

 

ちょっとわかりにくいですな。

 

うむ、自分の給与を増やしたいと考えるなら、働く企業を変えるか、はたらく業界を変えるしかない、という考え方が普通になっていくと思う。

終身雇用でも家族のような雇用関係でもなくて、学園祭の前日の夜食を楽しんだような契約関係でもなく、パート・アルバイトのようなつながりでもない、働き方に合わせた会社の辞め方が、明文化していくのが2021年なのかな、と考えたりしています。

LiDARとかiPhoneとかフォトグラメトリとか

LiDARとは、「らいだー」と読むそうです。

Light Detection And Ranging つまり「光による検知と測距」

iPad Pro とか 新型のiPhoneにもこの機能が搭載されているのだな。

「フォトグラメトリ」とか「空間スキャン」とか「3Dスキャナー」とかで検索するといろいろと出てきます。

 

5年くらい前は同じような仕組みを作ろうと思うと、桁違いのお金がかかっていたのですが、今はほぼ無料でできるような仕組みが登場してるわけですよ。

工事現場の様子を三次元的に記録したりできるようになってるので、現場の打ち合わせとか確認がものすごく楽になったり効率化が進むような気ががします。

今はまだ少しハードルが高かったりしますが、数年後にはごく普通に当たり前の気楽なツールとして普及しているような気がします。

いろいろ試してみよう。

少女邂逅

「少女邂逅」見ました。

地方独特の閉塞感というか失望感のような無力感のようなものに絶望しそうな少女たちの物語。

映画の中では少女漫画なんかにありがちな同級生とかとの恋愛の要素はほぼなく、途中少しだけ生物教師とのわずかな恋愛感情を匂わせるシーンがあるだけでした。

地方の学生にとって、「東京へ行く」というのは、一発逆転というか、閉塞感を打ち破る唯一の手段のようなところがあります。

地元に残ることは若者にとって変わらない退屈でつまらない絶望が平穏に続く日常といっしょに過ぎていくのです。

実際は地方には地方のいいところや変化や面白いところもあるのですが、情報ソースがテレビやラジオ雑誌などのマスメディアが主だったりすると、そういう魅力や情熱というのは、若い人たちには届かない、届きにくかったりします。

高校生にとっては、テレビとか雑誌とかネットメディアにしても、東京発信の情報がヒエラルキーの上部に位置しているのは、自分が高校生の頃とあまり変わっていないような気がします。

SNSにしたって影響力のあるインフルエンサーは東京周辺に在住しているし、グルメやらファッションについては都市圏の情報がメインになっているのだな。

50を過ぎた今になって思うんは

世界というのは自分の器と対になるものだから、自分のサイズが小さいと世界もちっぽけにしか見えないのだなということだ。

では、50過ぎた自分にとって世界はどの程度の大きさになったのか、ということですけれども、

確かに自分が高校生の頃に比べたら世界の広さというのはかなり広がったなと思うのですが、

そうはいっても自分自身はちっぽけな器の人間ですから、世界を股にかけて活動しているビジネスマンだとか、アーティストに比べると、ぜんぜんちっぽけなんですよ。

つまり知らない世界が多いというか、ほとんどのことを知らないし、知らない世界もぜんぜん狭い範囲でしから「知らない」と認識できない。

勉強したりそれなりに経験を重ねていくことで、世界がどんどん拡大していくわけで、その後悔は、

「もっと勉強しておけばよかったな」

「学生のうちに沢山本を読んでおけばよかった」

「若いうちにもっといろいろな経験をして、失敗しておくのも大切だったな」

というような感情として自分の中に溢れてくるわけですよ。

 

けれども、命を失ってしまうような失敗だとか、本当に取り返しのつかないような経験までを肯定してしまうのも間違いな気がします。

それはイジメだったり暴力だったり犯罪行為であるとかするのですが、結局はそういった経験は肯定すべきではないと思うし、謝罪や悔恨があったとしても、相手を許すのはまた別の問題なのだろうなとも思いました。

自分の中の憎しみであるとか辛さ、痛みと向きあうのは、結局は自分でしかないわけで、乗り越えることができるかどうかなんですよね。

 

最後、東京へ向かう列車の中にほかのお客さんがいない、

というのもなにか象徴的なものを感じました。