3人のレンガ職人

https://twitter.com/Hiroyuki_Saito_/status/1277790770808807424

三人のレンガ職人の話。けっこう有名ですよね。

同じ仕事をするなら心持ちが仕事の質や量に違いをもたらしますよ、というようなお話です。

良い話ですが、理想論かなぁとも思います。

「レンガを積む」といいう単純労働であれば正解なのかもしれません。

実際の世の中はちょっと違います。

三人のサラリーマンがいて、

一人目の54歳の部長は、バブル景気のまっさかりに入社、

「あのころはよかった」だの「俺が若い頃はこうじゃなかった」だの毎日毎日愚痴をこぼしながら定年まで会社をクビにならないように、挑戦せず、ミスを避けとにかくことなかれ主義的な姿勢を崩さず、それでいて年齢だけは重ねているので年収はなんとか800万に手が届くくらい。

二人目の32歳の課長は、ゆとり世代で

コミュニケーション能力だけは高いが、しょせんカネがすべてだよね、この仕事は大変だけど、大学の同期の中では上の方の給料金額だからなんとかやれてる。年収は30代で400万に手が届くくらい。

三人目の24歳の君は、

志高く、理想的で、使命感もありますよ。PDCAも回したり自己啓発書も読んだりしています。自分がやっている仕事は社会変革なのだ!というような感じでモチベーションも高い。サービス残業どんとこい、1ヶ月の残業時間が200時間で家に帰るのはいつも深夜過ぎ。それでいて手取りは十数万円。

みたいなことがザラにあります。

しかも問題を複雑にしているのは、この三人がそれぞれ別々の会社、別々の業界で働いていてお互いが見えていません。

 

アルバート・エリスのABC理論は「同じ条件で働くとすれば」「同じ環境で働くとすれば」という前提条件があればこそ成立する論理です。

ブラック企業の場合、このABC理論をやりがい搾取の手段として上手に利用していることが多いです。

あと、経営する側からだと、使いやすい、あるいは使いたくなる理論なので、自制するというか注意しないといかんなーと思ったりするんですよ。

だから「自分に対して」このABC理論を裏付けとして仕事に取り組んでいくのはいいのですが、社員や部下に対してABC理論で説得するのは、

やってはいかんなぁ、言ってはだめだなぁと考えているわけですよ。

じゃあ、どうしたらいいの?ってことですけれども、

泥棒や強盗以外はすべての仕事に意義や価値、目的があるわけで、仕事するなら、目の前の仕事に集中して、いい仕事をやるしかないわけですよ。

その上でしっかり考える、本当の理想なのか使命なのか、大切なことなのか、

自分が作っているのは本当に100年残る大聖堂なのか?

でもって、現実、そんな100年残るような仕事っていうのは、そんなに多くはなくて、世の中の殆どは、

「もう、使命感とか自己実現とか、そういうのあとまわしでいいから、これをこうしてあーして、あっちへ持っていけ」というような単純にして単調で生産性は低いながらも社会インフラの維持という重要な使命は、はるか霧の彼方に存在はしているものの、遠すぎてほぼ実感できない仕事がほとんどなのです。

だから経営者としては、この話を社員にしたら負けだと思うので、しない。

給水装置主任技術者

「給水装置主任技術者」という国家資格があります。

給水装置工事主任技術者試験(国家試験)に合格し、交付申請により厚生労働大臣より給水装置工事主任技術者免状の交付を受けた者がこの「給水装置工事主任技術者」になりまして、例えば下関の場合だと「指定工事店」さんの場合、基本的にこの国家資格が必須になっています。(下関市指定工事店さんのリスト

基本的に「下関市上下水道局指定給水装置工事事業者以外の事業者は、蛇口のパッキン交換等の軽微な工事を除き、下関市内で水道の工事や修繕を行うことができません」

これは水道法で決まっているので、この資格を持っていない人が、

「蛇口の交換」を行うと「法律違反」ということになります。

もし、水漏れが合った場合は、もよりの指定水道業者さんに修理依頼をするのがおすすめです。

基本的には工事事業者に登録されている業者さんだったらボッタクられることはないと思います。(変なことしたら資格を取り消されるリスクもありますしね)

基本的に、距離が自宅に近い業者さんであれば、今後のことを考えても正解だと思います。

金子商会でも、修理はしないのですが、

「どこか修理してくれる業者さんを知りませんか?」と質問されれば、

お住まいの地域を聞く。

その近所の水道工事店さんを紹介する。

という流れになると思います。

で「近所に何件もあるんですけどどこがいいですか?」ということになると、

「大人の事情で◯◯設備さんとか、この中だとオススメです」ということになります。

 

それから水道工務店さんは、金子商会の顧客でもあるので、あまり変なクレーマーになりそうな人はお客さんとして紹介しません。

「この人は水道工務店さんに紹介したくないなー」と感じたときは「まぁどこでもいいですよ」とか言って、ごまかすかもしれません。

まぁへんな人は、そもそもうちには来ないような気がしますが。

 

 

焼き肉

焼き肉結局我慢できなかったのでお店に食べに行きました。

初めて行ったんですけれども、美味しかったです。

また行こうと思います。

泰ちゃんやきにくたいちゃん

下関は焼肉屋さんけっこう多いような気がします。

市内は全部で何店舗くらいあるのでしょうかね?

20件くらいはあるような気がします。

自宅から歩いていけるところは満員だったので、車でちょっと離れたお店に行きました。

そこもギリ間に合った感じで、自分たちが行ったときは満席になっていました。

 

勉強が面白くなる量

50年以上生きてきて、やっと「勉強が面白いな」とか「勉強は大切」と思えるようになってきました。

もっと勉強しておけばよかったな、と毎日思うことがありますし、まだまだ勉強が足りないなと感じることも日々起こるわけです。

子供の頃は「どうして勉強しないといけないのか?」なんてことを毎日のように思っていました。

だって面白くないですからね、浦賀にペリーがやって来ようが、さいんこさいたんじぇんとで、ぱわーとぅーざぴーぽーなわけですよ。

つまりは意味不明っていうことでした。

でも50年生きてやっとわかってきましたよ。やっぱり勉強は大事だし、しかも面白いということになんとか気がついたわけです。

多くの大人たちがこどもに対して「勉強は大事だよ」っていうのは「勉強が大事だ」っていうことを「勉強すること」を通して実感として手に入れたからですよ。

そして、自分の知識不足であるとか重ねた失敗であるとか間違えた選択による結果の不満足さなどから、こうつぶやくわけです。

「もっと勉強しておけばよかった」とね。

で、ふと思ったんです。

「勉強は大事だ」「勉強するって面白い」と考えることができるようになるためには、ある程度の勉強の量が必要なのではないかと。

「勉強を面白く感じる能力」を手に入れるためにはある程度の勉強の量が必要なことに気がつくのです。

中学生のころ成績の良かった彼や彼女たちは、14歳位にして「勉強を面白く感じる能力」を手に入れていたのだなと思うのです。

つまり偏差値が65以上の中学高校生は、すでにその力を持っているわけです。

で、この力を手に入れるためには、個人差はアレどある程度の勉強の量というか基礎知識と言うか教養が必要なんではないかと考えるわけです。

それは読書量であるとか、解いた問題集の数であるとか、覚えた単語の数であるとか、方程式の量があって、それらの一定ラインを超えると、勉強がある日突然面白くなるわけです。

でもそのラインを超えるためには

ある程度の勉強量が必要なわけです。

おとなになっても日々の仕事の中で覚えることがあったり学ぶことがあったりすると、ある日突然その勉強量のラインを超える日がくるわけです。

そうすると「勉強すること」がけっこう楽しくなってくる、いわゆる知的欲求を満たすための勉強が楽しくなってくるポイントが現れるわけです。

でも勉強していなかったり、日々「学ぶ」というような生活を営んでいないと70歳とか80歳になっても勉強は面白くないままなわけですよ。

勉強していないとバカはバカなままなわけですよ。

いい大人なのに「勉強なんてしなくてもいいよ」なんて言ってしまう大人は勉強の総量が圧倒的に少ないわけです。

いわゆる「賢い中学生」の勉強量の累積よりも「勉強嫌いな70歳」の勉強の累積のほうが少ないわけです。

中学受験とかしている子どもでいわゆる中学生にして微分積分がわかるとか水滸伝や三国志を読んだりするような子どもというのは、今の自分の50年分の累積勉強量よりもたくさんの学習を重ねていわけですよ。

学習と言っても教科書を読むとか、本を読むとか、そういうことだけでなく、日々世界に対して興味をいだいて「なぜなんだろう?」「どうしてなんだろう」と考える、その思考過程そのものの違いが、すなわち勉強量の違いになるわけですよ。

もちろん生まれたときから脳の性能が違うという遺伝的な要因もでかいとは思うのですけれども、50歳過ぎてでも勉強を重ねていくことでそれなりに楽しい人生を過ごせるのではないかなと思ったりもしています。

 

でもまぁ賢い小学生とか中学生とか、やっぱり違いますよね。

自分が50年かかってやっと感じるようになった勉強の楽しさというようなことが15歳くらいですでに身についているわけですよ。

そしてその片鱗は多分小学生になる前くらいには現れているのであろうと思います。

で、仮にタイムマシンで小学生の頃の自分に対して「勉強は大事だし面白いよ」って直接伝えても、まぁ自分は勉強しないでしょうね。

まだ道の途中だからなんとも言えませんですけれども、勉強するのに「遅い」というこてはないと思うのですよ。

50になっても60になっても80になっても「勉強するのに遅い」ということはないのではないかなということです。

「勉強する」というのはちと違うか、

「新しいことを身につける」そのためにやったことがないこと、苦手なことに挑戦するというのを「勉強すること」と定義し直してみましょう。

いくつになっても挑戦するというのが、すなわち勉強するという意味だと考えて日々いろいろなことに挑戦するのがいいのかなと思ったりしています。

100歳まで生きる、そして働くのかなと考えると、50歳にとって、の頃の50年というのはかなり長い人生だと思います。