基本的には他人には期待していない

「期待はしない」
でも期待しないと人は成長しないし、まあ難しいよねそのあたりのバランスは。

D・カーネギーさんは著書「人を動かす」のなかで「期待をかける」ということを原則の一つとしてあげてます。

でもってアドラー心理学では「相手に期待しないこと」の大切さを説いていたりして、どっちやねんという感想ですよ。

このあたり「期待をかけること」と「期待をすること」は違うということなんかもしれない。

つまり「期待をしてますよ」と相手に伝えることが「期待をかけること」であり
実際に期待しているかどうかはどうでもいいということなんだろうか。

本音と建前を使い分けるってこととも、ちょっと違うんでしょうな。

どこで相手に気持ちを手放すか、うーむ、このあたりの表現というのはなかなか難しいです。

塩梅と言うかさじ加減というか。

「弄る」ということ

いぢる 【弄る】
1 指先や手で触ったりなでたりする。「ネクタイを―・る」
2 物事を少し変えたり、動かしたりする。「編成を―・る」
3 趣味として楽しむために、あれこれと手を加えたり、操作したりする。仕事などを趣味のように扱っていう場合もある。「盆栽を―・る」「会社では、毎日パソコンを―・っています」
4 おもしろ半分に、いじめたり、からかったりする。「先輩が新入社員を―・って楽しむ」
「何にても芸をせよ、と―・る」〈浮・一代男・四〉
吉本興業を始めとする関西のお笑いというのは、基本的に「弄る」とか「弄ってなんぼ」みたいな気がする。

で、誰かを弄るというのは、なかなか今の時代、世界のコンテンツにはなりにくいのだろうなーなんてことを思う。

吉本新喜劇すきなんだけどね

「このドブス!」とか「なんやハゲー!」というようなツッコミは、コンテンツとしては成立しなくなっていくんだろうな。

八日目の蝉

八日目の蝉は映画が良かったので、原作も読みたいなぁと思っていた。

で,映画の終わり方と原作では違っているらしくて、めっちゃ気になっていたんである。

オーディブルで残り46分のところまで聞き終えたのが今さっき。

どういうエンディングになるのか今すごくドキドキしている。

「生みの親より育ての親」とか「血は水よりも濃い」とか、どっちが正解やねん、というようなことは人生にはつきもので。

人の価値観とか生きる上での意味なんていうのは、それこそ正解なんてなくて、人の数だけ答えがあるといえるし、人の数だけ間違いがあるとも言えるんじゃないかなって思う。

例えば親が死んだときに泣けるかどうか考える。

例えば、12歳のときに親が死ぬのと、76歳のときに親が死ぬのでは

その悲しみの感じ方とか感情の動き方というのは当然違うと思う。

血の繋がりがあるという意味での親が死ぬのは、生物学的には母親で一度、父親で一度になる。

けれども育ての親であるとか自分の成長に関わった人の死というのは、人によって違うとは思うけれども、たぶん複数回はあるのだろう。

もしかすると実の親が死んだときよりも、あの人がいなくなったことのほうが悲しくて寂しくて辛いということはよくあるのかもしれない。

自分を育ててくれたのは師匠でした、っていう落語家の人だとか、
あんなのは親じゃねぇ、とか、親子の価値観というのは、道徳の教科書的な形だけのものではないと思う。

家族のカタチも変わってきていて、LGBTであるとか、血の繋がりがないけれど親子なんですよ、というようなことが普通になっていく世の中のようでもあるし、なんというか、遺伝系列的な親であるとか繋がりであるとかが重要視されているのは案外近代になってからなのかもしれないなぁなんて思うこともある。

人の思いとか優しさとか、幸せになってほしいという願いとか、そういう、なんというか「私とあなたのつながり」にいろいろな形があるのだろうと、そういうことを考えたりするのだ。

本を読み終えた(聞き終えた)ときに、なにか今までとは全然違う、親と子のありかたとか、つながりもあるのだなと気がつくのかもしれない。

 

八日目の蝉

昼休みに配達を頼むお客さん

金子商会ではお昼の休憩時間を三部制に分けて交代して取るようにしています。
11:30-12:30
12:00-13:00
12:30-13:30
の3つの時間帯に別れているのだ。

これは昼休みの時間帯に注文していくる人がいたり、引き取りに来るお客様がいたりするからなのだ。

とは言え、工事現場というのは、共同作業なので一般には昼休みは12時から午後1時というのが最も多い。
けれども、うちの会社で取引していただいているお客さんはわりと現場に一人で入っている設備屋さんが主なので、あまり時計とか気にしない人もいたりするのです。

今日もそんなこんなで、
「1時までに現場に配達して」といういつものお客さんからの注文が入ったので、配達に出発するわけですよ。

「昼休みに注文するとか、ひどいねぇ」みたいな声がTwitter界隈では聞こえたりするのですが、そういうお客様がいることを織り込み済みで休憩時間をずらして取るようにしているわけです。

で、お昼は外食することが多いのですが、配達が出たときは

「現場の近くにある美味しいお店」でランチを取るようにするのですよ。

そうすることで、

「おいしいランチを食べるついでに配達する」という価値観の逆転と言うか目的と手段の逆転が起きるわけです。

配達がないときは事務所でカップ麺を食べたりして

「今日はお昼の配達がなかったからショボい昼食になってしまった、トホホ」

みたいな残念な感覚さえ湧き出てきたりするわけですよ。

だから「休み時に電話するんじゃねぇよ」っていうよりもむしろ
「うまいもの食べたいから休み時間に注文こないかな」というような精神状態になるので、注文バンバンください。

プチプチみたいなゲーム

ゲームをしたりするのはストレス発散になるし、ちょっとした時間つぶしにはなるかもしれないけれども、多分なんの役にも立たないと思う。すごく時間の無駄だとしか思えない。

プチプチと呼ばれる緩衝材がある。

空気の入った粒を、指先でプチプチ潰しているとあっという間に時間がすぎる。

なんか猿もハマるらしく、動物的な本能を満たすために、脳に気持ち良い刺激を与えるとかなんとか、昔なんかで見たことがある。

で、最近のスマホゲームは、このプチプチに近いというか、プチプチそのものだという気しかしない。

確かに面白いかもしれないけれども、ゲームを1年間続けて、なにか自分が成長したり知恵がついたり知識が増したりするのかというと、そういうのはありえないと思うのだ。

例えば
「目の間前にあるプチプチを1年間毎日3時間潰してください」
とい言われるとしたら、それはお断りなのだ。

でも、ほとんどの人が直近の気持ちよさや快楽に負けてプチプチしてしまう。

気がつけば2年間くらい毎日30分くらいしている。

すげー怖い。

 

あと人によってはSNSもプチプチみたいなものなんかもしれない。