「少女邂逅」見ました。
地方独特の閉塞感というか失望感のような無力感のようなものに絶望しそうな少女たちの物語。
映画の中では少女漫画なんかにありがちな同級生とかとの恋愛の要素はほぼなく、途中少しだけ生物教師とのわずかな恋愛感情を匂わせるシーンがあるだけでした。
地方の学生にとって、「東京へ行く」というのは、一発逆転というか、閉塞感を打ち破る唯一の手段のようなところがあります。
地元に残ることは若者にとって変わらない退屈でつまらない絶望が平穏に続く日常といっしょに過ぎていくのです。
実際は地方には地方のいいところや変化や面白いところもあるのですが、情報ソースがテレビやラジオ雑誌などのマスメディアが主だったりすると、そういう魅力や情熱というのは、若い人たちには届かない、届きにくかったりします。
高校生にとっては、テレビとか雑誌とかネットメディアにしても、東京発信の情報がヒエラルキーの上部に位置しているのは、自分が高校生の頃とあまり変わっていないような気がします。
SNSにしたって影響力のあるインフルエンサーは東京周辺に在住しているし、グルメやらファッションについては都市圏の情報がメインになっているのだな。
50を過ぎた今になって思うんは
世界というのは自分の器と対になるものだから、自分のサイズが小さいと世界もちっぽけにしか見えないのだなということだ。
では、50過ぎた自分にとって世界はどの程度の大きさになったのか、ということですけれども、
確かに自分が高校生の頃に比べたら世界の広さというのはかなり広がったなと思うのですが、
そうはいっても自分自身はちっぽけな器の人間ですから、世界を股にかけて活動しているビジネスマンだとか、アーティストに比べると、ぜんぜんちっぽけなんですよ。
つまり知らない世界が多いというか、ほとんどのことを知らないし、知らない世界もぜんぜん狭い範囲でしから「知らない」と認識できない。
勉強したりそれなりに経験を重ねていくことで、世界がどんどん拡大していくわけで、その後悔は、
「もっと勉強しておけばよかったな」
「学生のうちに沢山本を読んでおけばよかった」
「若いうちにもっといろいろな経験をして、失敗しておくのも大切だったな」
というような感情として自分の中に溢れてくるわけですよ。
けれども、命を失ってしまうような失敗だとか、本当に取り返しのつかないような経験までを肯定してしまうのも間違いな気がします。
それはイジメだったり暴力だったり犯罪行為であるとかするのですが、結局はそういった経験は肯定すべきではないと思うし、謝罪や悔恨があったとしても、相手を許すのはまた別の問題なのだろうなとも思いました。
自分の中の憎しみであるとか辛さ、痛みと向きあうのは、結局は自分でしかないわけで、乗り越えることができるかどうかなんですよね。
最後、東京へ向かう列車の中にほかのお客さんがいない、
というのもなにか象徴的なものを感じました。