10億円をポンッと寄付する男

もし自分がものすごい大金持ちだとして、例えば10億円を寄付したとしてもそれを750万人で割ると一人あたり133円にしかならないという事実があって
それって一人にひとつじゃがりこを配ったらなくなってしまう金額なんだと考えると、寄付するよりももっと違ったお金の使いみちがあるだろうなと考えてしまう気がする。

自分がすごいビリオネアだったとして、オリガルヒだっけ?そういうお金持ちだったとして、手元に
「じゃあ、あんた自由に使える100億円あるやんけ。困ってるみんなに配ってくださいよ」
みたいなことを言われたとして、
「でも一人あたりにするとたったの1300円くらいなんだよ、そんなのもらっても嬉しくないだろう。しかも一回の振込に400円も手数料が取られるんだよ。
手数料だけで、金融機関が30億円も儲かっちゃうんだぜ!
アホくさいだろうよ」
って言い返すような気がするんだよ。

そんでもって、ものすごい大金持ちの人っていうのは、なんというか、めっちゃたくさんの人から少しずつ、それはもうメッチャ少しずつ、困らないくらいの、もしかしたら気が付かないくらいの金額をもらえるような仕組みを作っちゃってんだと思うんですよ。

一人当たり12円とか、例えば日本の場合、人間の数が1億2600万人だとして、

「毎月一人当たり8円」✕「12ヶ月」✕「1億2600万」とか
「毎日一人当たり3円」✕「365日」✕「1億2600万」とか

まぁ、全員はないにしても2000万人から集めるとか、300万人から集めるとかでも、相当な金額になるのは計算機を叩けば理解できるわけです。

軍事費とか国家予算とか何兆円みたいな世界に生きる人にとっては10億円というのは、誤差みたいなもので、1270円のA定食と1290円のB定食どっちにしよう、って考えたときの差額みたいな感覚だったりするのだろうなと思うのですよ。

そういう現実を踏まえた上で、寄付したりとかなにかできることをするとかいろいろ考えないと、なんというか世の中に流されちゃうような気がしてこわいのだ。

BCPとコロナ禍と世の中の変化をどう織り込んでいくのがいいのだろうか。

NHKのニュースサイトのまとめページを見ると2020年の1月8日がこのコロナ禍の最初の日付になっている。

コロナ禍のスタートを何日に設定するのかによって、2年以上続いているだとか、もう3年続いているだとかの若干のズレが生じてしまうのは仕方がないと思う。

この日がコロナ禍の始まりだというのを早い順番に並べると以下のようになるだろうか。

2019年10月に中国で発生しているらしいとう報告
2020年1月8日 WHOが新型ウイルスの可能性を否定できないと宣言
2020年1月14日 WHOが新型コロナウイルスを確認
2020年1月20日 WHOが「国際的な緊急事態」を宣言
2020年2月3日 乗客の感染が確認されたクルーズ船が横浜港へ
2020年2月11日 WHO 新型コロナウィルスを「COVID-19」と名付ける
2020年3月11日 WHO 「パンデミックと言える」と評価

2019年の10月から2020年の3月までだとすると約6ヶ月のズレがある。

コロナ禍がいつから始まったのかっていうときは、世間一般では3月11日のパンデミック宣言からだろうか?

だとすると、コロナな状態というのはまる二年くらい続いていることになる。

3年は続かないんじゃないかっていう予測も見られるのだけれども、どうも3年では終わりそうもない。

例えば、お気楽な海外旅行が来年の今頃できるのか?っていう話ですよ。

2019年の1月にドイツとスペインに旅行したんですけれども、そのときと同じような旅行を楽しめるようになるのはいつなんかなーと考えたときに、日本だけではなくヨーローッパや中国や他の国の防疫政策の都合もあるのだから年内は同じような旅行を楽しむというのはちょっと難しそうだ。
しかもウクライナでは戦争も始まってしまっているし「COVID-21」とか「新型インフルエンザ」だって発生するのかもしれません。

(ちなみにこちらのNHKさんのコラムは2019年5月の記事ですから彗眼ですね。)

とりあえず、今の状況が来年まで続いて、そうこうしているうちに違ったウイルスによるパンデミックが、これから先の10年間の間に2回くらい起きてしまう。というような状況になって、

海外旅行するときは
ワクチン接種義務化
出国時入国時のバイタルチェック及び生体データの提出
ウエラブルアプリでのデータと移動履歴の提出
みたいな、うへぇまじかー、昭和的な「旅の恥はかき捨て」みたいなワルイコトはもう出来ませんなぁというような、そりゃ自分の責任においてケシカランことをするのは自由ですけれども、万が一なんかの病気に発症したりすると、そういうことをしていたってことがバレバレになっちまいますぜ旦那(ウヘヘヘ)みたいな世の中になってしまい、それはそれで案外健全なのでいいのではないだろうかと思ったりもするのでした。

なんというか「清廉潔白」「品行方正」でなければ、まぁ好きなことはできませんよ、そういう世の中になってしまったのだなぁと、そういうことを受け入れるのが、案外若い人とかは平気なのかもしれないとも思ったりしているのです。

というか、今の十代二十代の人っていうのは、生体データとか位置情報の共有化みたいなことをオープンにするのって案外平気な人が多いのではないかしら。

ちなみにわしは今年55歳になるけど、そういうことをオープンにするのには、そんなに抵抗がなかったりする。

スペル

ネトフリで「スペル」を見た。

田舎ホラーと呼ばれるジャンルの映画である。
成功したあるいは幸せな人間が、田舎でひどいめにあってしまうという雛形にそったやつです。

テキサス・チェーンソー・マサカーとかバイオレンス・レイクとかサベージ・キラーとか

都会の常識が通じない田舎でトラブルに巻き込まれるというあれですね。

土着信仰とかと合わせ技で恐怖を盛り上げるタイプが多いのですけれども、そういう宗教的なことではなく、単に田舎の習慣であるとか町内会の取り決めであるとか、ちょっとした考え方の違いや優先順位の前後の違いなんかがあって、

「これだから田舎はいやなんだよ」

みたいな部分をテーマにした感じが多いです。

田舎礼賛的な主義主張がある反面、田舎には田舎のいやな部分や怖い部分もあるんですよということをホラーというエンターテイメントで昇華しているわけですよ。

現代社会だと田舎という設定を満たすためには

「携帯電話が使えない(電波が弱い)」

というただこの一点だけを満たせていれば「田舎ホラー」として成り立つようになってきた気がします。

そしてガラケーがなくなる今日、スマホが使えない=ネットが利用できない場所が、すなわち田舎ということになるわけで、

そいう言う意味では本当の田舎というのは、なくなってしまうのかもしれません。

もちろん都会に住んでいても「スマホを使いこなせていない」場合。その人は田舎者であると考えてもいいのではないかなと思ったりもします。

あとスマホが使えない職場とか、

持ち込み禁止な職場とか

そういう企業も田舎なのだ。

ましてや、会社のパソコンでネットに接続できない

なんていうのは「観念的な田舎」であると定義して間違いないのではないだろうか。

2022年3月

21世紀の四分の一が終わろうとしている。
この25年で変わったものは何なのか。
帝国の終焉と新しい帝国の発生

バーチャルな帝国としてのSNSのプラットフォームやワールドワイドのwebサービス。

帝国の終焉として、過去歴史上に現れた「帝国」がどんな歴史を辿っていったのかを学ぶこと。
オスマン帝国、ローマ帝国、ペルシャ帝国、ワッハーブ朝とか、古今東西、様々な帝国が勃興した。
気候の変動や技術革新によって変わってきた帝国の形

土器の発明や、印刷技術、もちろんITも技術革新、過去の様々な技術革新が新しい「帝国」を生み出してきた。産業革命がイギリスとかアメリカを帝国化してる。
ネット革命によって、これまでの帝国が分解されるのだけれど、それは帝国という仕組みそのものがなくなるわけではなくて、あたらしい帝国的なものが誕生するという。

そういう意味ではアップルも帝国だし、グーグルも帝国。アカウントは国民番号でありパスポートでありソーシャルナンバーなのだな。

あと地域ごとの独立とかもありかもしれん、

関西独立、大阪首都化計画とか、九州独立連邦とか、北海道樺太共和国とか、そいうククリの国家も出てくることがありうるかもしれないなぁとか、

国連加盟国数の変化とか、1990年以降にドカンと増えているけれども、そのときと同じような変化が、今後の10年で起きるかもしれない。

使っている言葉や文字、習慣や信仰が違っていると国家として一つにまとまっていると言えるのかどうかよくわかんないし。

そもそも国家に属するっていうのは、本質的にはどういうことなのかわかっているのか理解しているのかとか。

貧乏でなくて、少なくとも明日は今日よりマシか、今日と同じくらいの日常が続くんですよ。10年後の計画を立てて、その見通しが、まぁ間違いなくて、そこそこ幸せなんじゃないのかなっていう、共同幻想を持つことができないと、国家の維持というのは難しいのかもしれない。

英語のEMPIREは
「統治する(impero)こと(-ium)、統治するもの」がこの単語のコアの語源。

empire(帝国)⇒  empire(帝国)⇒  imperium(帝国、指揮権、司令部、軍事的権威、統治権)⇒  impero(指揮する、統治する、命令する)+-ium(名詞)⇒ im-(~の中に)+paro(準備する、配置する、備え付ける)⇒  pere-(もたらす)が語源。

emperor(皇帝)と同じ語源をもつ。

そもそも「統治」っていうのはどういう意味なのか、「統治される」というのはどういうことよ?っていう話もある。

あなたも私も誰かによって「統治されている」わけですよ。

統治されている自覚をもっているのかどうか?

「社会に属している」とか「統治されている」とか「支配されている」とかそういうことも文字化して考えることが大事。

 

 

自己責任と責任転嫁のバランス

何かミスをしてしまったときに、自己責任という定義があいまいだと、人生うまくいかなくなってしまいような気がする。

例えば遅刻してしまいがち、朝起きれないとか、準備に手間取ってしまう、定期券が見つからない、戸締まりが心配で確認しに家に戻ってしまう。

そういう原因に対して

「自分がもっとしっかりしなくては…」

と反省して、つまりは、
「遅刻してしまうのは、そんな私の生活が原因なんです」というのは「自己責任」という言葉で片付けてしまうのは違うねということだ。

例えば
「目覚まし時計が止まっていたから」
「親が起こしてくれない(学生さんの場合」
「いつも予定時間よりも3分くらい遅れて出発するバスが、今日は定時に出発した」
なんていう感じに「私は悪くない、悪いのは『目覚まし時計』であり『起こしてくれない親』であり『いつもどおりに来ないバス』のせいだ」というような考え方ではだめですよ。ということで他責にするのは筋違いだということでの、自責をちゃんと設定しろとか、そういう話なんだろう。

時計が止まらないように、電池を毎年正月に交換する
とか
親に起こされる必要がないようによる11時までに就寝する
とか
定時に出ても大丈夫なように3分前にはバス停で待機しておくとか

そのために環境を整えるのが正しい努力であり、そのために行動の順序であるとか種類を変えるのが大事で、
なんというか正しい責任転嫁というのはたぶん自分の周りの環境を変えるということに対して行わなければならないのだろうと思う。

「わたしがもっとしっかりしなければ」
とか
「俺がきちんとやっとけばいいのだ」
という思考になっているときは、

「そもそもこういうミスを生んでしまう業務の進め方がよくないのでは?」
とか
「ちょっとまてよ、この仕事って俺以外がした方が間違いないんじゃないか?」
というような、なんというか有意義な責任転嫁的思想というか志向もあっていいんじゃないかと思うんですよ。

責任感をもって業務を行う、仕事をするというのは、もちろん大事なんだけれども、
そもそも「人の責任感」におんぶ抱っこというか、重きを置くような業務の仕組みというか仕事の進捗というかそういうのは経営者としては、仕事の組み立て方としてはちゃうんやないかなという気がする。

うまくいえないのだが、じょうずな責任転嫁の仕方というか正しい責任転嫁というのも必要なんだなと思う。