勉強が面白くなる量

50年以上生きてきて、やっと「勉強が面白いな」とか「勉強は大切」と思えるようになってきました。

もっと勉強しておけばよかったな、と毎日思うことがありますし、まだまだ勉強が足りないなと感じることも日々起こるわけです。

子供の頃は「どうして勉強しないといけないのか?」なんてことを毎日のように思っていました。

だって面白くないですからね、浦賀にペリーがやって来ようが、さいんこさいたんじぇんとで、ぱわーとぅーざぴーぽーなわけですよ。

つまりは意味不明っていうことでした。

でも50年生きてやっとわかってきましたよ。やっぱり勉強は大事だし、しかも面白いということになんとか気がついたわけです。

多くの大人たちがこどもに対して「勉強は大事だよ」っていうのは「勉強が大事だ」っていうことを「勉強すること」を通して実感として手に入れたからですよ。

そして、自分の知識不足であるとか重ねた失敗であるとか間違えた選択による結果の不満足さなどから、こうつぶやくわけです。

「もっと勉強しておけばよかった」とね。

で、ふと思ったんです。

「勉強は大事だ」「勉強するって面白い」と考えることができるようになるためには、ある程度の勉強の量が必要なのではないかと。

「勉強を面白く感じる能力」を手に入れるためにはある程度の勉強の量が必要なことに気がつくのです。

中学生のころ成績の良かった彼や彼女たちは、14歳位にして「勉強を面白く感じる能力」を手に入れていたのだなと思うのです。

つまり偏差値が65以上の中学高校生は、すでにその力を持っているわけです。

で、この力を手に入れるためには、個人差はアレどある程度の勉強の量というか基礎知識と言うか教養が必要なんではないかと考えるわけです。

それは読書量であるとか、解いた問題集の数であるとか、覚えた単語の数であるとか、方程式の量があって、それらの一定ラインを超えると、勉強がある日突然面白くなるわけです。

でもそのラインを超えるためには

ある程度の勉強量が必要なわけです。

おとなになっても日々の仕事の中で覚えることがあったり学ぶことがあったりすると、ある日突然その勉強量のラインを超える日がくるわけです。

そうすると「勉強すること」がけっこう楽しくなってくる、いわゆる知的欲求を満たすための勉強が楽しくなってくるポイントが現れるわけです。

でも勉強していなかったり、日々「学ぶ」というような生活を営んでいないと70歳とか80歳になっても勉強は面白くないままなわけですよ。

勉強していないとバカはバカなままなわけですよ。

いい大人なのに「勉強なんてしなくてもいいよ」なんて言ってしまう大人は勉強の総量が圧倒的に少ないわけです。

いわゆる「賢い中学生」の勉強量の累積よりも「勉強嫌いな70歳」の勉強の累積のほうが少ないわけです。

中学受験とかしている子どもでいわゆる中学生にして微分積分がわかるとか水滸伝や三国志を読んだりするような子どもというのは、今の自分の50年分の累積勉強量よりもたくさんの学習を重ねていわけですよ。

学習と言っても教科書を読むとか、本を読むとか、そういうことだけでなく、日々世界に対して興味をいだいて「なぜなんだろう?」「どうしてなんだろう」と考える、その思考過程そのものの違いが、すなわち勉強量の違いになるわけですよ。

もちろん生まれたときから脳の性能が違うという遺伝的な要因もでかいとは思うのですけれども、50歳過ぎてでも勉強を重ねていくことでそれなりに楽しい人生を過ごせるのではないかなと思ったりもしています。

 

でもまぁ賢い小学生とか中学生とか、やっぱり違いますよね。

自分が50年かかってやっと感じるようになった勉強の楽しさというようなことが15歳くらいですでに身についているわけですよ。

そしてその片鱗は多分小学生になる前くらいには現れているのであろうと思います。

で、仮にタイムマシンで小学生の頃の自分に対して「勉強は大事だし面白いよ」って直接伝えても、まぁ自分は勉強しないでしょうね。

まだ道の途中だからなんとも言えませんですけれども、勉強するのに「遅い」というこてはないと思うのですよ。

50になっても60になっても80になっても「勉強するのに遅い」ということはないのではないかなということです。

「勉強する」というのはちと違うか、

「新しいことを身につける」そのためにやったことがないこと、苦手なことに挑戦するというのを「勉強すること」と定義し直してみましょう。

いくつになっても挑戦するというのが、すなわち勉強するという意味だと考えて日々いろいろなことに挑戦するのがいいのかなと思ったりしています。

100歳まで生きる、そして働くのかなと考えると、50歳にとって、の頃の50年というのはかなり長い人生だと思います。