それは電車男であったり岸壁の母であったり一杯のかけそばであったり。虚構と現実の狭間の面白さというのが確かにあって、それを眺めている第三者には一種のエンターテイメントだったりする。
ある婚活アカウントのツイートがいわゆるフィクションだったことで、ちょっとがっかりしてしまった。(フォローやめました)
個人的には中の人が女性ではなくおっさんでないことだけは避けてもらいたいところである。
なりすましであるとかネカマであるとか、疑い始めたらきりがない。
今、こうしてこのブログを書いているのが下関在住の53歳のおっさんであるかどうかは、確かめようがないのだ。
もしかしたら16歳の女子高生かもしれませんのことよ♡
とりあえず世の中には実在しない人物がいる。
藤子不二雄先生とかゆでたまご先生のように二人で一人の人格を持っている方もいらっしゃるし、プリキュアの原作者であるとこの東堂いづみさんは、実はユニット名みたいないわゆる法人だったりするのも、初めて知ったときは驚いた。
じゃあなにかい?武内直子先生ももしかすると実存していないのか?なんてふうに思ってしまったりしたのである。
今回の騒動で、ある意味やりようによってはコンテンツのあり方も変わってくるのかもしれないな、と思った。
つまり、架空のキャラクターの体で、毎日投稿をすることで、小説の原作として成立する可能性が出てきた。
今までもツイッターの投稿をまとめた書籍がいくつも発売されているのだけれども、前提条件として最初から架空のキャラクターとしてツイートをコンテンツとして投稿しそれを書籍にするパターンが、出てくるかもしれない。ということが。
うーん、これだとちょっとわかりにくいか。
例えば、企業垢の中の人はおっさんでありながらも架空の女性キャラとしてツイッターで日々発信するわけですよ。
で、その発言が非常に女性の共感を得られつつ、非実在人物でありながらも、投稿が非常に文学的であり、ひとまとまりにしたものの品質が相当に高く、ファンがファンを生み一種のコミュニティーを作り出してしまうわけです。
そうなるともはや広告とコンテンツとPRとお知らせと、そういういわゆる文章の内容が受け手にとってどうだったのか?が分かれ目になるだけで、それらの区別はもはやつかない、というか、区別する意味が果たしてあるのか?というところまでいくのではないかしら。
情報発信するときに大切なことは「嘘をつかない」ということは当然ではあるのだけれども、それは信頼を毀損しないためということだ。
信頼するということは、人が世の中で関係をお互いが持つときに、一番コストのかからない方法だからなのだと思う。
みながコミュニティで関係性を保つために信頼関係を大切にしているときに、「嘘を付く人」が一人でもいると、コミュニティ全体がひどい影響を受けてしまう。
「嘘を付く」「隠し事をする」というのは信頼関係を毀損してしまうのだ。
けれども最初からバレている嘘は、そう悲劇にもならない。
ジョー・ブラッドレーはアーニャの素性を知っていて嘘に付き合っていたからこそ、そんな悲劇にはならなかった。
スクヒとジョンスの悲劇はお互いに隠し事をしていたから起こったのだということですよ。
グレーゾーンを楽しむためには、嘘を嘘として、フィクションをコンテンツとして楽しむことができるという、ある意味「信頼を毀損しない」ギリギリのラインを守ることで、よりコミュニティの繋がりが強くなるという、そういう「文学」として楽しめるのではないかと思うのです。
プロフィールであるとか出来事であるとか、そこに嘘があると、いつかは必ずバレてしまうのだなぁと思うのですよ。
でも、嘘をついたとしてもそれが嘘であることがちゃんと相手に伝わっているならば、それはかなり高度のコミュニケーションの裏付けであり、
「そういう嘘はアリ」
という、ロープに振られたらちゃんと技を受ける、あるいはカウント2.9でキッチリ起き上がるという「それは嘘ではなんだよ」という、つまりは
「プロレスは真剣勝負なんだ!」ということや
「笑点に台本はない!」という
そういう時代に情報発信がやっと追いついて来ているとうことなのかもしれない。