放課後ソーダ日和

先日見た少女邂逅と同じ監督さんの作品。映画の最初と終わりに少女邂逅のミユリとツムギが出てくるのだけれども、物語に直接絡むことはないです。

世界線的には少女邂逅の5年後くらいの物語。

少女邂逅に出ていたお父さんはなんというか娘が自殺してしまうくらいですから、あまりいい父親ではなかったかもしれませんが、こちらの放課後ソーダ日和のお父さんは、男で一つで娘を立派に育てている良いお父さんです。

 

物語の終わりの方でお父さんが言う、「自由というのは○○ということなんだ」っていうのがホントそれということで、森田想(もりたこころ)さん演じるサナという女の子が、自分の娘と重なったりして、なんとなくホンワカした気持ちになったりして、まぁ機会があれば娘にも見てほしいと思ったりしましたよ。

 

それにしてもクリームソーダ700円(たぶん税込み)というのは、おじさんである自分の感覚でいうと

「高けーな、オイ」

700円あったら定食が食えるのに、あんなジュースに毛が生えたようなもので700円とかどうなんだ。という気持ちですよ。

というかオッサンがクリームソーダ頼むのはなかなか絵的に辛いものがあるのではないかなぁとも思ったりするのですが、そうは言っても結構甘いものも好きなので、もしかしたら注文するかもしれない。

というか、映画を見るとクリームソーダを今度注文してみようかなと思ったりもするわけですよ。

 

 

少女邂逅

「少女邂逅」見ました。

地方独特の閉塞感というか失望感のような無力感のようなものに絶望しそうな少女たちの物語。

映画の中では少女漫画なんかにありがちな同級生とかとの恋愛の要素はほぼなく、途中少しだけ生物教師とのわずかな恋愛感情を匂わせるシーンがあるだけでした。

地方の学生にとって、「東京へ行く」というのは、一発逆転というか、閉塞感を打ち破る唯一の手段のようなところがあります。

地元に残ることは若者にとって変わらない退屈でつまらない絶望が平穏に続く日常といっしょに過ぎていくのです。

実際は地方には地方のいいところや変化や面白いところもあるのですが、情報ソースがテレビやラジオ雑誌などのマスメディアが主だったりすると、そういう魅力や情熱というのは、若い人たちには届かない、届きにくかったりします。

高校生にとっては、テレビとか雑誌とかネットメディアにしても、東京発信の情報がヒエラルキーの上部に位置しているのは、自分が高校生の頃とあまり変わっていないような気がします。

SNSにしたって影響力のあるインフルエンサーは東京周辺に在住しているし、グルメやらファッションについては都市圏の情報がメインになっているのだな。

50を過ぎた今になって思うんは

世界というのは自分の器と対になるものだから、自分のサイズが小さいと世界もちっぽけにしか見えないのだなということだ。

では、50過ぎた自分にとって世界はどの程度の大きさになったのか、ということですけれども、

確かに自分が高校生の頃に比べたら世界の広さというのはかなり広がったなと思うのですが、

そうはいっても自分自身はちっぽけな器の人間ですから、世界を股にかけて活動しているビジネスマンだとか、アーティストに比べると、ぜんぜんちっぽけなんですよ。

つまり知らない世界が多いというか、ほとんどのことを知らないし、知らない世界もぜんぜん狭い範囲でしから「知らない」と認識できない。

勉強したりそれなりに経験を重ねていくことで、世界がどんどん拡大していくわけで、その後悔は、

「もっと勉強しておけばよかったな」

「学生のうちに沢山本を読んでおけばよかった」

「若いうちにもっといろいろな経験をして、失敗しておくのも大切だったな」

というような感情として自分の中に溢れてくるわけですよ。

 

けれども、命を失ってしまうような失敗だとか、本当に取り返しのつかないような経験までを肯定してしまうのも間違いな気がします。

それはイジメだったり暴力だったり犯罪行為であるとかするのですが、結局はそういった経験は肯定すべきではないと思うし、謝罪や悔恨があったとしても、相手を許すのはまた別の問題なのだろうなとも思いました。

自分の中の憎しみであるとか辛さ、痛みと向きあうのは、結局は自分でしかないわけで、乗り越えることができるかどうかなんですよね。

 

最後、東京へ向かう列車の中にほかのお客さんがいない、

というのもなにか象徴的なものを感じました。

 

 

 

 

レプリカズ

ネトフリの新着でキアヌ・リーブス主演映画「レプリカズ」が観られるようになっていたので早速見てみた。

キアヌ演じるウィリアム君は、ある医療系のバイオ企業に勤める科学者です。

死体に針をぶっさして、人間の記憶や意識を取り出して、そのデジタル化したデータをロボットにコピーするというちょっとアレなキャラクター。

「人間は過去の出来事と過程の総計、神経科学だ。」なんて奥さんに語ってしまうような人間で、あまり魅力的ではないです。

決断力もないですし、哲学や信念もないっぽい。

そんな彼の仕事ですが、実験がここにきて失敗続きです。

上司から「次失敗したらクビね」ということで、どうしようとクヨクヨしています。

こりゃ研究所にこもってでも実験をしなければ!という風になるのかと思うのですが、なぜかしっかり休みを取って、友人のエドに船を借りてバカンスを楽しむために港に向かいます。

その途中、乗っていた車が事故って、奥さんと子供三人が死んでしまいます。

 

ウイリアム君は考えますよ。

そうだ、「人格をコピーして、レプリカを作ればいいのだ」

 

で、彼はそれを実行に移すのですよ。

 

途中、再生した家族が食事の仕方が奇妙だったり、奥さんがジョギング中になんか怪しい表情になったりするという伏線があるのですが、回収されません。

脚本が途中で変わったのかもしれません。

あと主要人物のうちエドくんだけが死んじゃってるのですごくかわいそうです。

むかつく上司のジョーンズはなぜか生きているし、それならエド君もレプリカったらよかったのにと思いましたよ。

 

まぁ設定の所々が非常に浅いのですが、その分自分で深く考えると面白いのかもと思いました。

「人間を複製することがなぜ倫理的にダメなのか」

「人間にとって意識とはなんなのか」

「魂の存在はあるのか」

「肉体が人工物だとコピーはだめなのか」

「コピーされた人格は会社の持ち物になるのか、所有者はだれなのか」

「電子化された人格はコピーがいくつでもできるのだから、そうなると人にとって死とはなんなのだろうか」

「肉体が死んでも意識があるならば、人間にとっての本体は肉体と意識とどっちなんだろう」

「そもそも意識とは何か」

みたいなことを自分で考えるいいきっかけにはなるのではないかな、なんて思いました。

小説とか脚本を書く人はこの映画を見て

ここはこうしたら面白いはず!

ここのところをもっと膨らませてホラーテイストに!

みたいな感じで30本くらい物語が作れる作品だと思うので、ネタに困ったクリエイターさんは見るといいのではないだろうかと思います。

 

創作系の思考回路をもっている人だったら、奮起すること間違いなし。

 

鬼滅の刃

明日まで休暇ということで、「鬼滅の刃・全26話」見終わりました。

なんというか、努力をしてきたんだから俺は挫けないという気持ちを常に持っている主人公の炭治郎くんが熱いですね。

なんというか「もうダメかもわからんね」とか「あーこれもう死ぬ」とういとき根性とか気合でなんとかなる!というためにはそれを裏打ちするような死ぬほどの鍛錬があってこそなのだなと、そういうことを教わりますよ。

炭治郎くんはもともと剣術の才能のようなものがあり、アニメを見た感じではお父さんも鬼滅隊にゆかりのあるお人のようなのです。(原作は読んでません)

アニメは原作のどのくらいの分量なのかよくわからないのですが、先日原作漫画の方は無事に最終回を迎えたらしく、こりゃ全巻買って読みたいなという気持ちになっているのですが、近所のCoCo壱番屋に全巻揃っていたので、昼食時に読みすすめてみようと考えています。

ちなみにお気に入りのキャラは我妻善逸くんと、甘露寺蜜璃さん。

あと、ちょっと話題になった「鬼詰のオ刃」というパロディAVが秀逸だなと思いました。

フィクションなのかキャラを演じているだけなのか。

それは電車男であったり岸壁の母であったり一杯のかけそばであったり。虚構と現実の狭間の面白さというのが確かにあって、それを眺めている第三者には一種のエンターテイメントだったりする。

ある婚活アカウントのツイートがいわゆるフィクションだったことで、ちょっとがっかりしてしまった。(フォローやめました)

個人的には中の人が女性ではなくおっさんでないことだけは避けてもらいたいところである。

なりすましであるとかネカマであるとか、疑い始めたらきりがない。

今、こうしてこのブログを書いているのが下関在住の53歳のおっさんであるかどうかは、確かめようがないのだ。

もしかしたら16歳の女子高生かもしれませんのことよ♡

とりあえず世の中には実在しない人物がいる。

藤子不二雄先生とかゆでたまご先生のように二人で一人の人格を持っている方もいらっしゃるし、プリキュアの原作者であるとこの東堂いづみさんは、実はユニット名みたいないわゆる法人だったりするのも、初めて知ったときは驚いた。

じゃあなにかい?武内直子先生ももしかすると実存していないのか?なんてふうに思ってしまったりしたのである。

 

今回の騒動で、ある意味やりようによってはコンテンツのあり方も変わってくるのかもしれないな、と思った。

つまり、架空のキャラクターの体で、毎日投稿をすることで、小説の原作として成立する可能性が出てきた。

今までもツイッターの投稿をまとめた書籍がいくつも発売されているのだけれども、前提条件として最初から架空のキャラクターとしてツイートをコンテンツとして投稿しそれを書籍にするパターンが、出てくるかもしれない。ということが。

うーん、これだとちょっとわかりにくいか。

例えば、企業垢の中の人はおっさんでありながらも架空の女性キャラとしてツイッターで日々発信するわけですよ。

で、その発言が非常に女性の共感を得られつつ、非実在人物でありながらも、投稿が非常に文学的であり、ひとまとまりにしたものの品質が相当に高く、ファンがファンを生み一種のコミュニティーを作り出してしまうわけです。

そうなるともはや広告とコンテンツとPRとお知らせと、そういういわゆる文章の内容が受け手にとってどうだったのか?が分かれ目になるだけで、それらの区別はもはやつかない、というか、区別する意味が果たしてあるのか?というところまでいくのではないかしら。

情報発信するときに大切なことは「嘘をつかない」ということは当然ではあるのだけれども、それは信頼を毀損しないためということだ。

信頼するということは、人が世の中で関係をお互いが持つときに、一番コストのかからない方法だからなのだと思う。

みながコミュニティで関係性を保つために信頼関係を大切にしているときに、「嘘を付く人」が一人でもいると、コミュニティ全体がひどい影響を受けてしまう。

「嘘を付く」「隠し事をする」というのは信頼関係を毀損してしまうのだ。

けれども最初からバレている嘘は、そう悲劇にもならない。

ジョー・ブラッドレーはアーニャの素性を知っていて嘘に付き合っていたからこそ、そんな悲劇にはならなかった。

スクヒとジョンスの悲劇はお互いに隠し事をしていたから起こったのだということですよ。

グレーゾーンを楽しむためには、嘘を嘘として、フィクションをコンテンツとして楽しむことができるという、ある意味「信頼を毀損しない」ギリギリのラインを守ることで、よりコミュニティの繋がりが強くなるという、そういう「文学」として楽しめるのではないかと思うのです。

プロフィールであるとか出来事であるとか、そこに嘘があると、いつかは必ずバレてしまうのだなぁと思うのですよ。

でも、嘘をついたとしてもそれが嘘であることがちゃんと相手に伝わっているならば、それはかなり高度のコミュニケーションの裏付けであり、

「そういう嘘はアリ」

という、ロープに振られたらちゃんと技を受ける、あるいはカウント2.9でキッチリ起き上がるという「それは嘘ではなんだよ」という、つまりは

「プロレスは真剣勝負なんだ!」ということや

「笑点に台本はない!」という

そういう時代に情報発信がやっと追いついて来ているとうことなのかもしれない。

ミスミソウ

2018年4月の映画です。

主演は山田杏奈さん。

どっかで見たことあるなーって思ってたら。

2019年に公開された「小さな恋のうた」でもヒロイン役でした。

いい女優さんだと思います。

殺意とか優しさとか、目がいいです。

あらすじは、いじめられている女の子いて、

両親が家に火をつけられて焼き殺され、妹も全身やけどの重体。

で女の子が復讐するという、けっこうスプラッターなお話です。

 

田舎の閉塞感とか、未来のなさとか、人生の諦め感とか、雪景色はとてもきれいなのですが、そういう村の雰囲気が漂っているわけですよ。

働くところも遊ぶところもない、小さな町というのは、それはもう日本中にあるわけです。

例えば、自分が住んでいる下関市なんかも、人口は減少しているし、老人は増えているし、子どもは減っているし、大きな工場が撤退して失業者が多量に吐き出されたりしているわけですよ。

住んでいる人は「町」だとは思っているのですが、田んぼや畑がつづく風景を眺めていると、こりゃ村だよねぇとか考えてしまうわけです。

村八分とかムラ社会とかいう言葉があるように「ムラ」というのはあまりいいイメージがありません。

なんというか「産業がない」。それが「村」であるということなのかなぁと思います。

「町に憧れる」というように、田舎町に住んでいる自分が高校生だった頃は、東京とか福岡とか都会にはやっぱり憧れているわけですよ。

「このまちに住んでいても将来なんもねーな」

そういう閉塞感があると、人間、攻撃的になってイジメをしたりネチネチとした人間関係を継続してしまうのかもしれません。

映画の登場人物で「いじめる方」の生徒たちも、それぞれ家庭環境に問題があるようで「弱いものたちが夕暮れ、さらに弱いものをたたく」が実践されている味付けであります。

世の中は、夢に向かっているときは、そう悪くない場所に思えるのだけれど、向かう場所が絶望的に悲劇的な場所であるなら、または、そういうふうにしか思えないなら、世界というのは、ほんとうに酷いだけにしか感じられないわけですよ。

人の醜いところに向かう光は、暗い影しか見えないわけで、なんだろう、もっと楽しそうに生きる方法はなかったのかね。と思うわけです。

あとイジメとかあるときは、子どもは大人の犠牲者なんだなぁとか考えました。

 

「デトロイト」のころと今


映画「デトロイト」をアマプラで見ました。

1967年が舞台の映画なんですけれども、半世紀を過ぎてもまだまだ変わっていないのだろうなと、そういうことを感じさせる事件が今現在進行形でおきています。

社会や制度が変わるのには長い時間が必要なんだなと思います。

ただ、今回は暴動とかあっても、なんというかいろいろなことが可視化されて、今までとは違う状況を生み出すようなそんな気もします。

映画「デトロイト」では警察官は無罪になっているのですが、今回は無罪ではないっぽい感じですし、なにしろ映像とかそのときの状況が世界に配信されたりと、50年前とは違う展開を見せています。

例えば、今回映画「デトロイト」のような状況が起きたとして、モーテルにいた人たちがみなスマホを持っていて、現場中継していたとしたら、違う結果になっていたと思います。

「グラン・トリノ」「グリーン・ブック」「ミシシッピ・バーニング」など人種差別をテーマにした映画は多いです。

どの映画の舞台にもスマホはもちろんSNSは存在していません。

最近はSNSの描写を劇中に取り入れる映画も増えてきました。

自分は映画というのは、時代の象徴を先取りする部分もあると思っています。

「ゲット・アウト」という映画があります。

この映画もテーマには人種差別があるのですが、キーアイテムとしてスマートホンとSNSが交わっています。

主人公はスマホがあったおかげで助かったとも言えると思います。

twitterが誕生したのは2006年。まだ15歳のサービスですから、いろいろ足りない部分もあるかもしれません。

それでも、世界は良くなっているんじゃないかなと感じたりもしています。

映画「デトロイト」を見終わったときの無力感ややるせなさが何ヶ月後にはなくなっているといいなと思います。

 

 

 

 

昭和の日

ええ、以前は「天皇誕生日」っていう名前だったんですよ。

で、しばらくの間は「みどりの日」っていう名前で、ちょっと前に「昭和の日」っていう名前に変わりました。

今年は水曜日だったので連休にならず、中途半端な感じになってしまって申し訳ありません。

祝日として恥ずかしいです。

GWの一日目として、役割を果たしきれていないなと思われていると思ってました。

ところがなんとなく雰囲気が違うような。

全国のお子様たちは、なんだか随分と長い休日で「今日が祝日だっていうことを忘れていた」なんて声も聞こえてきます。

5月の2日3日も営業予定だったりする企業さんもいるんですよね。

ゴールデンウィーク、長い企業では4月25日から5月6日とか10日までやるところもあると聞きます。

4月の25日が初日だとすると、4月29日の立場がまた危うくなる気がしないでもありません。

そもそも「昭和の日」ってなんなんでしょうか?「明治の日」とか「大正の日」とか「平成の日」とかないのに「昭和の日」だけ残す意味がいまいちわかりません。

祝日法の定義だと「激動の日々を経て、復興を遂げた昭和の時代を顧み、国の将来に思いをいたす」ための日だということです。

昭和がどういう時代だったのかしっかりと勉強して反省して、将来のことをしっかり考えましょうね、

そういう日にしなくてはいかんのです。

本とか読んでますか?まんが日本の歴史の近代史とか読むだけでもいいのではないでしょうか?

あと映画ですな。

やはり「この世界の片隅に」はいいのではないでしょうか?

そんでもって実写版の「夕凪の街 桜の国」も見るのはどうでしょう?

あとは大島渚の「少年」とかね。

大島渚さん、すごいっすよ。なんかもう難しいですけど。

いろいろと今見ると古いかもしれませんけど、昭和の日なので、そういうのもいいかなと思います。

 

犬鳴村

映画「犬鳴村」見に行きました。

お客さんは自分ともうひとりオッサンで、二人だけでした。

映画館は人数も少なく、お客さんはいませんでした。3つの密をちゃんと守れている感じ。

で犬鳴といえば犬鳴トンネルですよね。

今から30年くらい前、大学生だった頃犬鳴峠に一度行ったことがあったような記憶があります。

電話ボックスはあったような気がしますが、トンネルには結局行きませんでした。なんか洒落になんないからやめようということで、そのくらい福岡では有名な心霊スポットでした。

心霊現象とか、正体がわからない、なんだかわからないものはやっぱり怖いですよね。

で、映画の方は奥菜恵さんがいい味でした。

心霊映画といえば奥菜恵さんですね。

奥菜恵さんが出ているだけで怖い映画に違いないって思ってしまうくらいのアイコンなんだと思っています。

商売でもそのくらいのシンボル的な要素があると強いですよね。

「○○があるから間違いない」そういう強みがある商売はやっぱり強いと思いますよ。横展開もできるし。

感染防止ということで、映画どうしようかなーと思ったのですが、ネットの予約状況を見てみると、予約している人がいなかったので、大丈夫そうだなと思いました。

実際、お客さんいませんでしたし、なんというか、濃厚接触する要素はありませんでしたので、自粛しませんでした。

普通にコンビニとかスーパーで買物するのと同じかなと、むしろ映画館貸し切りだったので安全だと思いました。

とはいえ、この状態が二ヶ月三ヶ月と続くとなると流石に商売として成り立たなくなってしまいますよね。

緊急事態宣言が解除されるまでどのくらいかかるのかっていうとだいたい75日くらいはかかるのかなと思います。

武漢市の都市封鎖がそのくらいの長さでしたので。

ただ、日本はそこまで厳格に封鎖していないように見えるので、もっと長引くかもしれません。

メッチャ運がよかったら7月には解除になるかもしれないけど、なんとなく、もっとかかるんじゃないかなと考えています。

そうなると廃業や倒産が増える。政府はあんまり頼りにならない気がします。

今東京で起きていることが、下関のひと月後(もっと早いかも)の姿なのかも。

下関の映画館も営業休止するかもしれません。

 

 

 

 

ハッピー・デス・デイ

同じ日を何度も繰り返すという映画はけっこう多いですよね。

いわゆる「ループもの」と呼ばれるジャンルで、「時をかける少女」「打ち上げ花火、下から見るか横から見るか」「バタフライ・エフェクト」「オール・ユー・ニード・イズ・キル」「8ミニッツ」「リピーティッド」「トライアングル」「loop」

それはもうたくさんありますよ。

それだけ「あのときに戻れたらやり直したい」という感情は共感を生みやすいのだろうなと思います。

今回も、二ヶ月前に戻れたら株を全部売っていたのに、くはぁどうしよ~という方も多いのではないかと思ったりします。

でもまぁ、映画みたいにはなりません。

現実は、時間を巻き戻すことなんてできないのですよ。

そうはいっても、なんとかやり直したいなと思う。

せめてこれから先は、いい生き方をしたいなと思うのですよ。

 

この映画の中で、最初に主人公が目覚める部屋のドアに、あるメッセージが書かれています。

”Today is the first day of the rest of your life.”

今日は残された人生の最初の日。

 

100日後に死ぬ人にとっては、毎日が残された人生の最初の日なわけです。

一応ホラー映画ですけど、あまりこわくありません。

ホラーテイストのコメディだと思います。

面白かったです。

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