「りんごは果物だ」「果物は甘い」 よって 「りんごは甘い」
「ぶどうは果物だ」「果物は甘い」 よって 「ぶどうは甘い」
というような前提があったとして。
「みかんは甘い」だから「みかんは果物だ」
というのは学習から得られる成果としての「結論」なんだな。
人は、論理展開を学習することで予測を立てたり、答えを導いたりすることができる。
けれども、「〇〇は果物だ」「果物は甘い」よって「◯◯は甘い」という論理だけだと、その事例をいくつ積み重ねたとしても
「砂糖は甘い」だから「砂糖は果物だ」という推論も受け入れてしまうし
「砂糖は果物ではない」だから「砂糖は甘くない」なんていう論理も成り立ってしまう。
勉強はできるんだけど、賢くないっていうひとは、論理展開が一種類とか、多くても3つくらいなので、ちょっと複雑な状況を与えられるととんでもない結論を導き出してしまったりする。
勉強がたりないな、知識が足りないな、なんて考えて、自分なりの勉強や学習を積み重ねるのだけれども、
「すいかは甘い」「レモンは酸っぱい」「桃は甘い」という知識をやパターンを学習して蓄積していったとしても、帰納法と演繹法だけでは、その間違いから抜け出せないのだ。
「トマトはどうなんだ」という問いもあるし。
甘いトマトもあれば、甘くないトマトもあるし。
「そもそも甘いというのはどういうことだ?」
とか
「果物とはどういうものなのか」「甘いの他にもなにか定義があるのではないだろうか?」とか、
問そのものを見直したりするのが、すなわち「考えること」なんだろうなと思う。
勉強は大事なんだけれども「考える」というのは、あんまし学校ではやっていないし、むしろ「考えてはいけない」というようなことが多いのではないだろうかと思う。
学校の成績がよかったり、いい大学にいってたりするのはたしかに勉強が出来てかしこいのであるかもしれないけれども、
「考える力がない」というのはよく聞く話だったりする。
しで、自分もあんまり考えていないし、なんでも人間の脳というのは「できるだけ考えないようにする」という方向へ向かうようなのだ。
なにも考えなかったら、どんどん「考えない方」へ行ってしまうのだということらしい。
よく考えていきたい。