これは請求できないなぁ

何年か前の話。

お客様から某グリーストラップを注文があり、ウチの倉庫へ入荷。

翌日客先の現場へ納品。

梱包を開いてみたところ、ヒビが入っていたということで、さてどないしましょうか、ということがありました。

ダンボールで梱包されていて、基本的には入荷したときに段ボール箱が変形していたり、ぶつかった跡がなかったり、振ってみたら変な音がするなどしていない限り、わざわざ梱包を開いて中身を確認することはありません。

ですから、「梱包を開いたら壊れていた」とか「割れていた」という場合は基本的には製造不良を疑うんですけよ。

自社はいわゆる問屋ですので、メーカーに対してそのまま事情を言います。

「梱包を開いてみたらヒビが入っていた。返品交換できますか?」

メーカーからの回答は

「製造不良かどうかわからないから、返品交換はできません」ということで、ちょっとがっかりしました。

で、こういうときはどう対処するのが、お客様にとってありがたいのか?または次の仕事につながるのか?そして印象がカッコいいのか?

を考えて、

「不良品は弊社が見破れなかったのがミスです。新品と入れ替えます。」とお客様に。

メーカーに対しては「製造不良ではないというのは、本当なんだろうから、新しいのを送ってください」

ということで、不良品代は丸かぶりしました。

ウチの倉庫で壊れてしまったか、配達納品の段階で壊れたか、そういうことでしょうな(違うけど)

メーカーの営業マンさんは、そのあとお詫びに来てまして、まぁ本社の方はそういうしかないよねーみたいな話で、お礼のみで、値引とかはなかったです。

 

で、お客さんには追加請求とかはなしで、そのまま新品を納品。その後

半年くらいして、別の現場でまたグリーストラップの注文をいただきました。

 

 

責任を取るというのは、「カッコつけるまたとない機会」だと考えて対処するといいんじゃないでしょうか。

ちょっとしたやせ我慢も必要でしょう。

痛みとかもあるかもしれないです。

損したなぁと思う部分もあるでしょう。

 

なんか大きなミスとか失敗で損害が生まれたときに、

「こうするとカッコいい」という基準で対処するといいのではないかと思います。

 

そうすると、相手が無茶なクレームで、へこへこ単に要求を聞くだけ、というパターンも

「なんだよ、へーこらしてるだけで、カッコワルイ」ということで聞く必要もなくなってくるので、

ぜひともミスの処理をするときは「カッコいいかどうか」「イカスやりかたかどうか」で判断するといいでしょう。

失敗のリカバリーは伝説の生まれるいい機会です。

 

転職とか引き抜きとか

ぼんやりと考えていることなんですけれども、会社と従業員のいわゆる「雇用関係」について思うこと。

終身雇用がなんかなくなってしまったのは、企業や業界の成長期というのが終わってしまい、昇進とか昇給がけっこう固定されていたり、企業そのものの寿命が尽きてしまったりとか、原因があるのだろうかなと思っています。

例えば1960年代設立の会社っていうのはけっこう多くて、家の会社も設立は1967年なんですよ。

で、周りを見渡すと創業60~90周年という会社はけっこう多いです。

というか生き残っている会社はけっこうそのくらいの年令の会社が多いです。

で、60年代に創業した会社というのは、日本の高度成長期に合わせて、実際、なにもしてなくても日本市場の規模の増大とか人口の増加に合わせて成長して行けていたのだと思います。

これという変化や成長を指定なくてもマーケット自体が大きくなってたから、特徴的なことや経営理念や戦略がなくてもけっこう会社が成長できたわけです。

1960年に二十歳で就職して、60歳になる40年後の2000年まで務めるという終身雇用制度がうまく言ったのは、なんだかんだ言っても人口が増えて市場(つまりは購買者)が大きくなったからこそ成り立ったと考えています。

で、時代は2020年なんですが、

下関なんかはもう毎年のように人口が減ってきてまして、もうこれは事実として変えられない動きなわけです。

2050年には、バブル期に30万人いた人口が20万人以下になってしまう、その上高齢者が割合として多いということですよ。

そうなると終身雇用というのは、なかなか難しい。

1960年代→2000年 の成長カーブと同じような右肩上がりのマーケットというのは下関には存在しないわけです。

 

でまぁ、優秀な人材は引き抜かれたりとか転職したりが普通になるのかなと思っているのですが、

例えばうちの会社の場合、金子商会に勤めて新人研修やら商品知識のOJTやらで3年から5年位がすぎるとけっこうな知識が身についたり、あるいはビジネスマナーというのもそれなりに身についたりすると思います。

そうして手塩にかけて育てた人材を、取引先に引き抜いてもらうという戦略というのもありかなと考えたり。

 

会社の経営理念や存在意義、あるいはキャリアアップシートなどを明文化して、誰にでもアクセスすることで、取引先、つまり金子商会でいえば仕入先のメーカーや商社さんが、引き抜くというかヘッドハンティングするのもありなのかもしれないと考えたりしています。

で、何年かがすぎると

  • 「あの会社の社員であれば間違いない」
  • 「あの会社の事務員さんは有能だ」

という評判が立ったりして、仕入先の所長さんが、

「お宅の事務員さんをください!」

というような話になったりして。

「えー、ただじゃやだなー」

「じゃあ○○万円契約金を払うよ」

というような会話がなされつつ、なんと申しますかプロ野球の金銭トレードのような転職のありかたというのが普通になっていくのかもしれない。

ここでいう契約金というのは、その社員を育てて、これから会社で利益を出してもらうつもりが、いきなり転職を打ち明けられて昇進している零細企業の経営者がいただくものなのですよ。

 

ちょっとわかりにくいですな。

 

うむ、自分の給与を増やしたいと考えるなら、働く企業を変えるか、はたらく業界を変えるしかない、という考え方が普通になっていくと思う。

終身雇用でも家族のような雇用関係でもなくて、学園祭の前日の夜食を楽しんだような契約関係でもなく、パート・アルバイトのようなつながりでもない、働き方に合わせた会社の辞め方が、明文化していくのが2021年なのかな、と考えたりしています。

棚卸とか整理整頓とか清掃とか

100%完璧に理想通りというわけではないのですが、棚卸しの必要がないくらい整理整頓と清掃ができているように毎日「棚卸」という名の業務を行っています。

棚卸の目的は何かというと、

「在庫金額を正確に把握する」ということです。

なぜ在庫金額を正確に把握しなければならないのか?

それは決算をするときに、この数字がいい加減だと、利益ができているのかどうか正確に把握できないからですな。

実際は売り物にならないような商品でも在庫として金額をつけて計上していしまうと、本当の利益よりも多くなってしまうということがおきてしまうわけですよ。

もう10年も動いていないものは、在庫として数えないで廃棄処分するなりしないと意味がないです。

倉庫に転がっている資材でもう何年も動きのないものは、ゴミ以下だったりするので、定期的に処理していく必要がある。

捨てるときに、もったいないなぁと感じることもあるのですが、断腸の思いで廃棄処理をしたりするわけですよ。

決算で利益ががっぽり出たときに、在庫の廃棄処理をしたりすると税務署さんに突っ込まれたりするので、それはやめたほうがよくて、

やはり日々の業務の流れの中で、こまめに売れ残ったものとか、不動在庫品は処分していかないといけない。

そのためにも日頃の整理整頓清掃は大事で、

在庫管理の理想というのは、一瞬見ただけで在庫数が正確に把握できるような仕組みにするのが一番なんだろうと思います。

枠を作ってその中に入れるようにするとか、いろいろ方法はあるのだけれども、めんどくさくてやっていない部分もあるので反省の毎日ですよ。

仕事はめんどくさくて地味なことばっかりですよ、けれどもそういう部分を、コツコツと地道に積み重ねるのが、結局は一番強いのだろうと思います。

一年二年続けたくらいではあまり意味がないような気がしますが、5年10年が過ぎたときに、そういう地味な積み重ねをちゃんとしていると、そういう企業が結局は強いのだろうなと思います。

 

ネットとかビットの時代になって、ビジネスの結果が半年とか一年とか、そういうスピードで、素早くガンガン回して処理していくのが大事だ!というような風潮の中でつい忘れがちになってしまうとは思うのですが、やはり10年間続けるとか20年間続けるとかでついていく企業の体力もあるような気がする。

 

 

と、ここまで書きながらも、そういう地道な積み重ねの部分をオートメーション化して全く新しい物流管理システムを作り上げるというのはありなのかもしれないし、そっちが主流になるのかもしれない。

規模とかスピードとか自動化と24時間化とか、スケールによって最適解が変わってはいくとは思う。

倉庫の在庫管理についてはまだまだ見直すべきところが大きい。

というか、お仕事は面倒くさいとの戦いだなぁと思う。

いや、ほんとうにめんどくさいことばかりだから、せめて機嫌よく笑顔で毎日過ごそう。

夏休み

明日から16日までの四日間夏休みで会社はお休みです。

弊社のお客さまは基本的にはプロの業者さん、いわゆる水道設備店さんになります。お客さんも同じように休みですし、仕入れ先もだいたい同じような日程で休みになります。

流通の川上の方にある資材メーカーさんなんかでは先週の8日からすでに休みの会社もあったりして、今年は最大9連休というのが羨ましい企業さんということになります。

弊社も11・12日は休みにする予定でしたが、仕事をするお客さんもけっこういるということで、営業することになりました。

で、本日の業務も残すところ30分くらいになりました。

この時間帯になるとお客さんもすでに後片付けモードに入っているので注文の電話というのはほぼありません。

自分も書類を片付けたり、ちょっとゴミをまとめておいたりして休みの準備をしたり、休み明けの段取りを書き出したりしたところです。

今はこうしてブログを書いておりまして、この文章を書き終えて更新すれば本日の業務もほぼ完了ということになります。

今年は夏休みが短く、また次女に関して言えば来年の高校受験を控え、たくさんの宿題と塾の課題でヒーヒー言っております。

それにしても、今年は夏休みっぽい感じがしないですね。

出かけるにも気が引けてしまいますし、ショッピングというのは不要不急な部分が大きなものですから、とりあえず中止にしたり延期にしたりなりがちですな。

うちの娘はショッピングというか買い物が好きで、好きあらばイオンについれていけだのゆめシティに行くだの言っております。

なんかほとんどコロナとかは気にしていない模様。

手洗いをするとかマスクをするとか人混みは避けるとか、そういう基本的な行動をしていたらまぁコロナとかそう移りはしないのではないかという考えだそうです。

この盆休みの間に家のPC環境をレベルアップして来たるべきリモートワークな時代に対応すべくいろいろやってみる予定なのであります。

とりあえず仕事部屋がルーターの置いてあbpsるリビングルームと距離があって仕方なくPLCを使ってLAN接続しているのだが(電波が届かないのよ)下りが5Mbpsくらいしか出ないので、天井裏に潜って穴を開けたりしようと思ったりもしたのだが、この暑さで死ぬかもしれないので、その作業はもう少し寒くなってからやろうと思った。

一応、下調べで天井裏を覗くくらいはやってみようと思っています。

買うか借りるか

アパートを借りたりするときに家賃はどのくらいなんだろうか?

下関の自分が住んでいるところだと、1DKで3万円くらい。

二人暮らしなら5~6万円くらいの2LDKとか3DKくらいだろうか。

高い一戸建ての借家だと9万円とか10万円という家賃もあるのだ。

月に十万円の家賃だとすると

「それって住宅ローンとか組めば家がかえるのではないか?」と考えてしまう。

住宅ローンで毎月8万円というのはけっこうな金額だ。

月の家賃がそれをこすなら家を買ったほうが安い気がする。

もちろん固定資産税だとかの税金もあるし、何年かに一度は塗装をしたり補修をしなければならなかったりで、経費とか積立のようなものも必要なのはわかる。

自動車にしてもリースするのがいいか所有するのがいいのか、それとも必要なときにレンタカーを借りるのがいいのか、いろいろあると思う。

通勤するのに自動車が必要であればレンタカーというのは、逆にコストが高くなるよね。

商品やサービスを購入するのか借りるのか考えるときには、

どのくらいの頻度で利用するのか、

維持費はどのくらいかかるのか、

得られる満足や快感はどれほどのものか、

どの程度安心をえることができるのか、

利益をどのくらい生むことができるのか、

そんな諸々のことを考えて、その商品だかサービスだかが、どのくらいの耐用年数があるのか、というのを計算して買うか借りるか判断する。

人はまぁとりあえずは論理的な基礎判断をしているつもりであっても感情に流されてしまう部分が多い。

そんでもって、今現在や戦時中のようになんらかの変化の真っ最中だったりするとあんまり長いスパンでの利用というのは、計画通りに進まないように思う。

長くて5年、実際は3年半くらいが耐用年数ということを考える。

42ヶ月で、元が取れたなと思うことができるか、なのかなと思う。

「このサービスに対してだったら月5000円ぐらい払ってもいいかな。」

と思った時、5000円✕42ヶ月=21万円ととりあえずの金額をけいさんして、

じゃあ今買ったら、30万円だとか、12万円だとかで、買ったほうが得だなとか損だな、と思うわけです。

それを所有したり利用したりすることで付加価値を生み出したり、誰かの役にたちたいと考えることで、また新たな価値が生まれたりもする。

時間を節約することができるとか、気持ち的に前向きに慣れるとか、具体期なメリットはなんなのかなどだ。

会社のトラックを買い換えるときも、いろいろ考えるのだ。

135点と147点

昨日一昨日はゴルフに行きました。

それぞれ違うゴルフ場でした。

土曜日はアウト68イン67で135点

日曜日はアウト75イン72で147点

うーむ、我ながら酷いスコアですな。

ここしばらくは120点台だったんですけれども、日頃の練習不足と体重が増えたせいかもしれません。

まぁそれほど向上心があるわけでないので、そもそも練習していないです。

素振りもしていないので、そりゃ技術が向上するわけないですな。

 

でも、下手の横好きというか、けっこう楽しんでやれてると思います。

ドライバーとかバシッと打てるとやっぱり気持ちがいいですし、たまーにバーディとかとったりするとやっぱり嬉しかったりするのですよ。

ロングパットが入ったりとかね。

上達したらもっと面白くなるような気がします。

でも練習する時間があれば他のことするなぁという気持ちの方が強かったりする。要は優先順位がそれほど高くないんだよな。

でも、あんまり酷いスコアだと一同伴者に若干迷惑がかかるような気がしないでもない、というか申し訳ない気持ちというか、そういう思いも若干あります。

 

なんというか基本的な体力不足というか体幹のタフネスとか筋力不足な要素が強いかもしれない。

疲れてくるとショットが安定していない感じを覚えています。

二日目は筋肉痛とかも少しあり、なんというかスタミナ不足というか、打つときにふらついている感覚がずっとありました。

基礎体力が落ちてるのだなぁと感じます。

ショットの様子を動画に残すとあとから分析できそうな気もします。

打ちっぱなしにいって動画でいろいろ角度を変えて観察するのもやってみたほうがいいのかもしれない。

とりあえず明日は休暇日なのでちょっと練習しにいってみようかと思っています。

 

勉強が面白くなる量

50年以上生きてきて、やっと「勉強が面白いな」とか「勉強は大切」と思えるようになってきました。

もっと勉強しておけばよかったな、と毎日思うことがありますし、まだまだ勉強が足りないなと感じることも日々起こるわけです。

子供の頃は「どうして勉強しないといけないのか?」なんてことを毎日のように思っていました。

だって面白くないですからね、浦賀にペリーがやって来ようが、さいんこさいたんじぇんとで、ぱわーとぅーざぴーぽーなわけですよ。

つまりは意味不明っていうことでした。

でも50年生きてやっとわかってきましたよ。やっぱり勉強は大事だし、しかも面白いということになんとか気がついたわけです。

多くの大人たちがこどもに対して「勉強は大事だよ」っていうのは「勉強が大事だ」っていうことを「勉強すること」を通して実感として手に入れたからですよ。

そして、自分の知識不足であるとか重ねた失敗であるとか間違えた選択による結果の不満足さなどから、こうつぶやくわけです。

「もっと勉強しておけばよかった」とね。

で、ふと思ったんです。

「勉強は大事だ」「勉強するって面白い」と考えることができるようになるためには、ある程度の勉強の量が必要なのではないかと。

「勉強を面白く感じる能力」を手に入れるためにはある程度の勉強の量が必要なことに気がつくのです。

中学生のころ成績の良かった彼や彼女たちは、14歳位にして「勉強を面白く感じる能力」を手に入れていたのだなと思うのです。

つまり偏差値が65以上の中学高校生は、すでにその力を持っているわけです。

で、この力を手に入れるためには、個人差はアレどある程度の勉強の量というか基礎知識と言うか教養が必要なんではないかと考えるわけです。

それは読書量であるとか、解いた問題集の数であるとか、覚えた単語の数であるとか、方程式の量があって、それらの一定ラインを超えると、勉強がある日突然面白くなるわけです。

でもそのラインを超えるためには

ある程度の勉強量が必要なわけです。

おとなになっても日々の仕事の中で覚えることがあったり学ぶことがあったりすると、ある日突然その勉強量のラインを超える日がくるわけです。

そうすると「勉強すること」がけっこう楽しくなってくる、いわゆる知的欲求を満たすための勉強が楽しくなってくるポイントが現れるわけです。

でも勉強していなかったり、日々「学ぶ」というような生活を営んでいないと70歳とか80歳になっても勉強は面白くないままなわけですよ。

勉強していないとバカはバカなままなわけですよ。

いい大人なのに「勉強なんてしなくてもいいよ」なんて言ってしまう大人は勉強の総量が圧倒的に少ないわけです。

いわゆる「賢い中学生」の勉強量の累積よりも「勉強嫌いな70歳」の勉強の累積のほうが少ないわけです。

中学受験とかしている子どもでいわゆる中学生にして微分積分がわかるとか水滸伝や三国志を読んだりするような子どもというのは、今の自分の50年分の累積勉強量よりもたくさんの学習を重ねていわけですよ。

学習と言っても教科書を読むとか、本を読むとか、そういうことだけでなく、日々世界に対して興味をいだいて「なぜなんだろう?」「どうしてなんだろう」と考える、その思考過程そのものの違いが、すなわち勉強量の違いになるわけですよ。

もちろん生まれたときから脳の性能が違うという遺伝的な要因もでかいとは思うのですけれども、50歳過ぎてでも勉強を重ねていくことでそれなりに楽しい人生を過ごせるのではないかなと思ったりもしています。

 

でもまぁ賢い小学生とか中学生とか、やっぱり違いますよね。

自分が50年かかってやっと感じるようになった勉強の楽しさというようなことが15歳くらいですでに身についているわけですよ。

そしてその片鱗は多分小学生になる前くらいには現れているのであろうと思います。

で、仮にタイムマシンで小学生の頃の自分に対して「勉強は大事だし面白いよ」って直接伝えても、まぁ自分は勉強しないでしょうね。

まだ道の途中だからなんとも言えませんですけれども、勉強するのに「遅い」というこてはないと思うのですよ。

50になっても60になっても80になっても「勉強するのに遅い」ということはないのではないかなということです。

「勉強する」というのはちと違うか、

「新しいことを身につける」そのためにやったことがないこと、苦手なことに挑戦するというのを「勉強すること」と定義し直してみましょう。

いくつになっても挑戦するというのが、すなわち勉強するという意味だと考えて日々いろいろなことに挑戦するのがいいのかなと思ったりしています。

100歳まで生きる、そして働くのかなと考えると、50歳にとって、の頃の50年というのはかなり長い人生だと思います。

100日目

「とりあえず100日続けますよ」ということで、今日でなんとか100日続きました。

ただ書いているだけなのであまり変化はないですけれども、とりあえず書かないといけないなあぁというよりは、毎日書くという習慣にはなったような気がします。

何年か前に別のブログを書いていたのですが、PHPのバージョンの関係で上手に移行することができず、過去ログに全くアクセスできないということもあって、しばらく更新していなかったんですよね。

ブログを書くわけですけれども、その日一日あったことや感じたことなどを書いているだけなので、情報発信しているという意識はほぼありませんでした。

会社をやっているときにとにかく考えたことや心がけたことを、何年かあとに初心に戻るためとかあるいは自分の道なりを見返すのに、ブログや日記は役に立つように思います。

ネットに公開しているわけではないのですが、日誌は毎日つけています。

去年の今頃はどうだったかな?とか、過去の次月の予定はどんなふうに組み立てていたっけ?というような使い方もしています。

そうすることで、そろそろあれをしておいたほうがいいなとか、これに取り掛かるようにしようみたいな、そういう備忘録としても活かすことができるわけです。

ただ今年みたいな社会状況がけっこうな規模で変わっていたりすると、参考にできないことがほとんどです。

去年はこうしていたけれど、今年は難しいなぁとか、そういう感じ。

でも、日誌を付けていなければそういうことにも気が付かないわけで、自分自身を客観的に眺めるのにも役立っているような気がします。

さて今日からまた100日後といえば夏が終わる頃ですね。

子どもたちの夏休みも短いようですし、去年までとは違った夏になりそうなことは間違いないです。

秋を前に、下関の景気はどうなっているでしょうか?

下関市はインバウンドの観光マーケットにそれなりに力を入れていました。

唐戸市場や水族館のあるあるかぽーと地区は、中国・台湾・韓国からの旅行客で賑わっていたのですが、今はほぼゼロとなっています。

年内は海外からの来客はまずないと考えるのが正しい前提になります。

つまり観光系や旅行系の売上は、年が明けてもこの何年かの平均売上の半分もないというところでしょう。

売上が半分になると、普通の経営であれば立ち行かなくなるわけで、新しい顧客を見つけたり、ビジネスの組み立ても変えなくてはやっていけません。

コロナ騒動の100日でしたが、現時点で新しいことをはじめていなければ、これから100日もほぼ状況は変わらないと思います。

政府の援助も期待しないほうが正解だと思います。

「なんとかしてくれ」って頼んでも、まぁなるようにしかならない。

今後は気候変動とか、もしかしたら大地震がくるかもしれないし、台風の被害もやっぱりあるでしょう。それは間違いなくありますよ。

そう考えて仕事のありかたとかやり方を変えていかないと、やっぱりどうにもならない、つまりは廃業するなり精算するなりの舵取りも必要になってくる。

来年のオリンピックも個人的には開催されないか、開催されたとしてもまったく違う形での運営になるはずです。

というか、同じ形で運営されると、かえって時代の変化についていけない社会構造がそのまま維持されてしまって、世界の変化に取り残されてしまう度合いがますます大きくなってしまうのではないでしょうか?

以前のやり方に戻そうとするのは、未来に続く道ではないように思います。

情報発信とプライバシー

自分でウェブサイトを運営したりtwitterに投稿したりして情報発信していると、どこまでプライバシーを確立するのかというのはけっこうな課題です。

本人のネットスキルや経験・考え方など様々な要素によってどこからどこまでの情報なら公開していいのかは、けっこう幅があります。

本名を公開する公開しない。というのも人によって立ち位置が違いますし、他にも自分の顔写真、住所、連絡先電話番号、ファックス番号、趣味趣向、食事になにを食べたのか、今何をしているのか、スポーツジムに来てます的なツイートをするかしないかなど、人によってこれはOK、あれはNGというのは、明確な基準やルールが有るわけではありません。

個人の中でも以前はOKだったけれども今はNGの情報があり、逆に以前はNGだったけれども今はOKな情報もあるでしょう。

情報発信するときに注意しておきたいのは、

メディア化された情報は、拡散のコントロールをすることはできない。

という点です。

メディア化というのは動画や画像はもちろんテキストデータや音声データも含まれるすべての情報コンテンツのことです。

メディア化したコンテンツは、たとえば、メールでやり取りしたり、電話でやり取りしたりした瞬間に複製と拡散の可能性を帯びます。

メディアというのは「人と人の間にあるもの」のことです。

100%完全にコントロールできない以上、「すべてのコンテンツは拡散する性質を持っている」と考えて発言や行動をするという覚悟を受け入れていないといけません。

「ネットじゃなくて電話だから大丈夫」

「実際合って話すから大丈夫」

そんなことはありません、いくらでも録音できます。今の録音機器はすごいですよ。

「言葉」も立派なメディアの一種ですから。

もう、なんというか隠し事とかできないてちえ、行動するしかないんですよ。

厳しいですな。

非常にたいへんなことであります。

もう開き直るしかないんですよ。

多少の下心とかスケベ心もオープンに話をするしかないです。

自分は聖人君子ではないし、誰もがそうではないのだということも受け入れておく必要があります。

ですからツイッターで「おっぱい!」とか書くのは問題ないのです。

「DMM.comのVRとかすげぇ」とか「Pornhubやばいだろう」とか「DXLIVEエロすぎ」などオープンにしておくことも大事なのです。

なんのこっちゃよくわかりませんが、そういうふうに開き直ってると結構ネットリテラシーも高くなると思います。

けっこう忙しかった

連休があけまして、止まっていた現場も動き始めました。今週の後半くらいからいそがしくなるかなーと思っていたのですが、今日からけっこうバタバタと現場が動き始めました。

おかげさまで、今月はそれなりに現場が動いているのでありがたいことです。

緊急事態宣言もなんとかこのあたりは解除されそうな雰囲気ですよ。

実際、緊急事態と言っても東京や福岡のような大都会とちがって、あまり危機感がないような気がします。

身近な人に感染者がいるとか、知り合いが入院しているということがないので、そんなに気にならないというか、本当に緩んだ感じしかしなくて申し訳なく思います。

コロナショックと言われた世界同時株安からだいたい二ヶ月くらいが過ぎたのですが、ここに来て倒産とか店じまいの話がネット上でちらほらと見られるようになっているのですが、自分の知り合いの経営者の人は、なんとか頑張って踏みとどまっています。

弱音をはいていないでやせ我慢しているだけなのかもしれませんけれども、本当に頑張っていると思うんですよ。

なんとなくこの騒ぎが終わったあとはドカンと消費というか需要が戻ってくると思いますし、この大変さを乗り越えたらなんというか称号というか、本物というかブランドというものが得られると思うのです。

「生き残ったんだからすごくいいお店に違いない!」みたいな評判というか信用が構築されるのではないでしょうか?

「うちは本業で勝負だ!」

「休業中も商品開発を頑張っていたぜ!」

「より品質を上げて復活したぜ!」

みたいな勢いのある本物だけが醸し出す雰囲気というのでしょうか?

自分の商売に信念と情熱と愛情を持って、もうそれが匂い立つというか、お客さんが

「いや、マジで利用できなかったんで、メッチャ参ってた」

「あんたのお店に行けない日々がゴッツ辛かった」

「開くのを楽しみにしてたんよ」

と言ってくれるようなお店が実際生き残ってるんではないでしょうか?

というか生き残って欲しいと思いますよ。

 

本当に必要とされるお店であれば3ヶ月くら店が閉まっていたとしても一ヶ月の売上で三ヶ月分取り返せるくらいの売上があるのではないかという気がします。

 

月に一回行ってたお店にとりあえず週1回、あるいは10日に一回いけばいいわけですよね。

新規顧客でなく常連さんがいつもの3倍お店に行くだけで一ヶ月で取り戻せる、そういうサービスであれば大丈夫なんではないでしょうか?

とりあえず、来月は家族でカラオケに行こうと思いますよ、

 

 

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