ここは戦場ですか?

医療関係者の親しい友人がいるわけではないのですが、肺炎でなくなる方はどのくらいの数いるのか知りませんでした。

そこでネットにある資料をいくつか探してみました。

大体8%くらいの人が肺炎で入院して亡くなってる。

平成28年に肺炎で亡くなった人数は117,629人。

肺炎は脳血管疾患を抜いて、がんや心臓病に次ぐ日本人の死因3位だ。

医療関係者を兵隊さん、医療現場を戦場だと例えてみると、毎月多い月は3万人くらいのかたが、肺炎という敵に殺されているわけです。

これまでは、遠い戦場で戦いが繰り広げられていたわけですが、ある日を境にいきなり本土決戦が始まったような、そういう体制になってしまったように感じます。

正しい戦い方をしないといけないなぁと思います。

 

マスクを買うために並ぶ。

熱があるのに我慢して働く。

そういうのは間違った戦い方なのでしないようにします。

 

 

正しい戦い方は

規則正しく健康的に暮らす

疲れたら休む

具合が悪いときは休む

熱が出たら休む

人混みは避ける

手を洗って清潔にする

歯も磨く

毎日風呂に入る

笑顔でいる

とにかく寝る

家でゲームをする

そんなところでしょうか。

 

悲しいけどこれ戦争なのよね。」

そういう覚悟が必要なのかもしれないです。

 

「君は生き残ることができるか?」

つくづくガンダム脳なので、家で映画見ようと思います。

 

 

損失と経費のバランス

一昨日、事務所荒らしに入られたのだけれども、警備会社とかそういうのは、毎月の経費がかかる。

基本的なリスクの見積もりとしては、おいている現金が盗まれるとか、事務機器が盗まれるとか、パソコンが盗まれるとか壊されるとかで、そういうのは盗難保険でカバーできてる。

警備会社に依頼するとか、通報装置をあれこれすると、結局盗まれる金額よりも何倍もの経費がかかるわけです。

1000円盗まれるのを防ぐために1万円の金庫を買う、というのはコストの掛けすぎなんだろうなと、判断するわけです。

リスクをどのくらい見積もるのかは、それぞれの価値観でもあるのですが。

経済合理性がどっちがいいかで考えるのも大事だと思います。

で、犯人逮捕につなげるためにはウエブカメラも安くなったし、いいかなと思って早速注文したのですが、なんか初期不良だったみたいでネットにつながらず返品することにしました。

安すぎるとあまりよくないですな。

5万円くらいで探してみるつもりです。

↑4,000円は安いのですが、使えなかったです。セットアップに3時間ぐらい時間がかかったのですが、結局使えませんでした。

5年ぶりに泥棒に入られた、許せん。

事務所荒らしに入られた。

空き巣というか要するに泥棒ですな。

写真は5年前の年末にやはり事務所荒らしに入られたときのものです。

とりあえず火災保険で盗難にも保証がついているのでお金はあとから帰ってはくるものの、やはり腹が立ちますね。

現場検証やらなにやらで朝の三時間ぐらいがなくなってしまいましたよ。

盗難のリスクというのは、常にあるわけで、どんなに用心していても盗まれるときは盗まれると思っています。

一番いいのは、事務所に現金を置かないということです。

それでも、毎日貸し金庫に現金を預けるのはたいへんなので、まぁ少額だけおいておくわけですよ。

ALSOKとか入るといいとか言われるんですけれども、年間の経費を考えると盗まれる方が安いということで、導入はしておりませんし、する予定もありません。

防犯カメラも、入られたあとで映像見てもしょうがないしなーと思っていたので導入していませんでしたが、刑事さんと話しているときに、

「証拠として画像があるだけでも違う」

というような知恵を頂きまして、うむ、たしかに逮捕に繋がりやすいということかと思いました。

この手の空き巣というのは常習犯も多いそうですし、画像から犯人逮捕につながるということで、やはり市民としては協力しなくてはいけません。

そんなわけで、そう高いものでもないので、webカメラを購入しました。

次は三度目の正直、かならずとっ捕まえてやる!

シン・ゴジラとパンデミック・フルー

思っていることを、思いつくままに書いてちょっと考えを整理していこうと思う。

コロナショックで世界が大変なことになっている。

正体のわからないウイルスで、どう対応するのが正解なのかわからない、終わるのがいつなのかもよくわからない状況。

半年なのか一年なのか、それとも二、三年という長い期間続くのか、実際のところはよくわからない。

どの場合も想定しながら、そのときその時に最善と考えられる手段で対応するしかないのかなと思う。

四月五月には日本もイタリアやイギリスと同じ状況になるかもしれない。

どこか諦観しながらも、とにかくやれることはなんでもやってくという覚悟がだいじなんだろうなと思う。

政府はあんまり当てにしない、のが正解のような気がする。

で、今の状況はシン・ゴジラでいうところの第三形態のゴジラがやってくる直前だと思う。

第二形態のゴジラが去ってなんとなく騒ぎがおちついて株価もちょっと安定しているな、というところ。

来月には第三形態にあたる怪物が暴れまわってたいへんなことになってしまう、みたいな。

で、なにもできないまま、なんとなくコロナウイルスが消えて一時的に日常がまた戻ってくる。

で、落ち着いた頃、今年の冬なのか、来年なのかに第四形態のゴジラがやってくる。

第四形態のゴジラは、多分インフルエンザウイルスなんだろうなと考えている。

コロナウイルスよりももっと毒性が高く感染性も高い。

パンデミック・フルーの本番。

どうすればいいのかって?

まぁなるようにしかならないよね。

スペイン風邪レベルの厄災が来るというのは、予想されていたことだし、なんとなく、来ないんじゃないかなーとゆるく考えていたんだけれども、今回のコロナショックは次に起きるインフルエンザ・パンデミックの予行練習だと思っておいたほうがいい。

スペイン風邪はひどい災厄だった。

犠牲になった人は多かった、戦争も起きた。けれども人類は絶滅したわけではない。

生き残ることだけを考えて、お互いに支え合って、頑張っていこう。

 

 

造成地がバンバンできてる感

下関市はけっこう宅地造成が多いのではないか、住宅の新規着工数もそんなに減っていない。半分になったとか、そういうことはないし、1月は新規着工数は192件だったので、持ち直している。

近所に新しくできた造成地は完成する前に、完売していたということで、新しい家が立ちあがっている。

家は買わないほうがいいという話もあるけれども、あなたが英語は当然として中国語もスペイン語も話せて、1年の2/3は海外に出張しているとか、そういう年収が5000万円以上あるビジネスパーソンであるなら、賃貸のほうがいいかもしれないけれども、生まれた場所・町から一歩も出ることもなく(旅行などは別として)一生を終え、かつ子供や孫も似たような生涯を送るのであれば、やっぱり持ち家のほうがいいと思うのです。

基本的に教養の偏差値が48以下の人は一生を生まれたところで終えると思うんだよね。

もしくはそういう地元の人を相手にローカルな商売をするのであれば、やはり持ち家が正解だと思う。

意識高い系の新しいビジネスがなんたらとか、グローバルでハイスキルで高学歴な人であるなら、やはり田舎を飛び出していくと思うんですよね。

で、今までは、日本であればそういう教養の偏差値の高い人は東大に行ったりしていたんでしょうけど、これからはもしかしたらいきなり世界につながるのであろうかと考えたりもしています。

 

というかスマホでなくタブレット端末でネットにつながるようになれば、状況も変わるのかもしれないなと思ったりもしています。

5G端末でタブレットのシェアが65%くらいになると世の中もっと明るくなるのではないかしら。

 

メディア接触時間を減らそう

SNS

コロナショック以降、明らかにSNSを見る時間が増えている。

なんかついSNS画面を見てしまうのです。

この感覚はあれだ、311の東日本大震災のときの感じに非常に似ている。心が落ち着かなくて刻一刻と変化する状況から目を離せないという、それでいて見たから自分の行動になにかつながるのかといえば、ほとんどつながらない。

ただ、時間だけがダラダラと過ぎていく感じ。

あのときの反省としては、見る時間をコントロールする。

本を読んだり映画を見たりすることに時間を使うようにする。

そうしたほうが絶対にいいと思っています。

あとテレビのニュースとかワイドショーは基本的に見ない。

そうやってメディアに踊らされないように自分をコントロールするほうがいい、と考えております。

とはいえ、ついつい見てしまうのですよ。

今日も結構見てしまいました。

特にPCブラウザでつい見てしまうので、これではいかんなということで、一時的にサイトブロックの拡張機能を使ってフェイスブックとツイッターを一時的に見られなくします、っていうかしました。

スマホとタブレットは見られるようになっていますが、こちらもスクリーンタイムを使って1日あたりの使用時間を20分程度に設定しています。

本を読んだり映画を見たり、人と話をするのに時間を使おうと思いますよ。

何よりも自分自身と向き合う時間を大切にしていなかったので、意識して行動しないといけないなと反省。

今日はゴルフしました。

少人数の場合は、いいのだろうと思いましたが、それでもお客さんはいつもより少ないですね。

例年ならばもっと人が多いような気がします。

スコアはさっぱりでした。139点。いきなり最初のホールで18叩いたのはもうなんだか心が折れましたよ。OB3回続けて打つと辛いですな。

とりあえずパーが一回あったのでまあよしとしましょう。そんな心持ちだから上達しないのですけどね。

結婚と子育てと働くこと

結婚するかしないかは、個人の自由であるし社員が独身だろうが同棲していようが同性愛者だろうが、働く上ではあまり関係ないです。

ただ子育てっていうと違う。

やはり働くこととの優先順位をどちらに重きを置くのかということです。

昭和の時代は男が会社で働いて女性が子育てと家事を担当するというモデルが一般的だったように思います。

お互いに依存しているという関係で、どうもここ最近はそのような働き方がうまくいってないような印象があります。

結果としての少子化であり原因としても少子化であると、どんどん人口が減っていくし、平均年齢は高くなっていくし、賃金は安くなっていくし、どうするんだよ?というところでしょうな。

働き方改革で働くというのが時給換算ではなく、生み出す価値とか、付加価値そのものの質や量が大事であって、時間を拘束されるから賃金をもらうという、ったっだそれだけのことではあまり稼げない時代になってきたということのようです。

子育ては結果を評価するとか、そういうものではないのかもしれない。

どれだけ時間を投入できるのか、その投入先が育児なのかそれとも仕事なのかということですが、通勤時間であるとか会議であるとか、どう考えても生産性の高くなさそうな事柄に時間を投入するのははばかられるように思います。

なんだかんだで幼少期から中学校を卒業するまでは親である自分は、優先順位の高いのはどちらかといえば育児の方だったような気がします。

思い出して見るに、

自分の今はなき父親(昭和10年生まれ)は、本当に家事をしていなかったような気がします。

洗濯や洗濯物を干したり畳んだり、トイレ掃除をしたりお風呂の浴槽掃除したり、布団を干したり、料理を作ったり、食後の食器を片付けたりは、全くしてませんでした。

うちの母はよく文句をいわなかったなと思うのですが、まぁそういうことが社会的に許されていたところもあったのかなと思います。

もし今、そのころの父と同じようなことをする人がいたらちょっと引かれるのではないかと思います。

とりあえず家事は一通りできるようにしておいたほうがいいですね。

 

応急処置

応急処置

写真は配管から水漏れしたときの応急処置をするための部材です。

大成機工さんのフクロジョイントという部材になります。

災害のときとや給水管の老朽化のときに水の流れを止めることなく漏水補修します。

あれば便利ですけど、なければ修繕箇所の手前から断水して新品の配管にするなどして対処します。

いずれにしても応急処置なので後日配管を新しいものに引き換える必要があります。

何かあったときのために準備していおく、備蓄しておくというのは、何も起きていないときには無駄なように見えます。

例えば、何年間一度も出動していない消防車、一大購入するのに6000万円でした。そろそろ買い換える時期になりました。

一度も利用しなかったのだから、新しく買う必要がない?

そんなことはありません。

火事は必ずおきるのですからやっぱり必要です。

災害は必ず起きる。

今まで災害にあわなかったのは運が良かっただけ。

消防車はやはり必要なのです。

 

 

とはいえ、コスト削減しないと日常業務で注文がもらえなかったり、なんてこともあります。

本当に世の中に必要なサービスであったり商品であるなら、そこまでのコストをかぶせた価格設定をしておくのが本当に誠意のある姿勢なのかもしれません。

まずは税制を改正してほしいですね。

資金の内部留保をしても税金がかからないようにしたらいいのかも。

まぁ、そんなことより内部留保できるくらいしっかり稼がないといけないのですが。

映画「パラサイト」を見ました。

アジア映画初のアカデミー賞を取った映画パラサイトを見に行きました。

監督はポン・ジュノさん。

ポン・ジュノさんの作品で見たことがあるのは

「殺人の追憶」「グエムル」「スノーピアサー」「オクジャ」の四本。

なので今回のパラサイトは5本目ということになる。

ポン・ジュノさんの「母なる証明」はウォッチリストには入っているのだけれどもまだ見ていません。けっこう面白そうなので順番が来たら見る予定です。

これまでに見た映画の共通点を無理やり結びつけてしまう形になってしまうかもしれませんが、

「底辺」「どん底」「低層」という言葉。

上と下があれば下、しかも最も低いところに流れる「よどみ」に思考の焦点が当たります。

用水路であったり、排水溝や、階層社会の縮図とも言える列車の下層車両、あるいは屠殺場などが描かれている。

重なっても交わることがない断絶があると、で、それはもうそういうものとして受け入れるしかないのだという、諦めに似た気持ちに気がついてしまうのです。

「お互いにわかり会えない」ということを受け入れるのは難しいです。

「同じ人間なのだから話せばわかるはず」と人は考えるからこそ、うまくやっていけると信じられるのだけれども、

本当のところはどうしたってわかり会えない人間関係だってあって、それが民族とか血縁とか人種ではなく、個人個人の違いや性質に収斂してしまう。

収斂した個人がひとかたまりの群となって、ますます分断されるような世の中になってしまうのかなと思ったり。

なにかもっといい人と人の繋がり方っていうものがあるのだろうなと思うのですが。

折り合いをつけるということが必要ではない世の中をはたして求めていいものなのか、そういうことを考えたりします。

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