錯覚

遠くのものが小さく見えるのはなぜなんだろう?

そういうことを考えることがあって、それは眼球でものを見るという仕組みのせいだということを知った。

直進する光を目の水晶体が屈折させて網膜に当てることによって自分は世界を見ている。

屈折させて小さなスクリーンに投射するから遠くのものは小さく近くにあるものは大きく歪んだ形で像を結ぶ。

つまり錯覚した形で常に世界を認識している。

そのことに初めて気がついたときに、自分は世界を本当にありのままに認識することはできないのだなと思った。

「宇宙空間は無重力状態」というのも間違った認識だ。

映画や漫画で宇宙空間を描くとき、無重力状態の演出がある。

重力に引かれて自然落下しているだけであって本当の意味で「重力がない」わけではない。

人工衛星は時速3万キロで地球の周りに沿って落ちている。

落ち続けているから、その中にいる人は中に浮いているように見える、重力がないように見える。

宇宙船は地球から月へ向かうときも、地球や月や太陽や、そして遠くの銀河の重力の影響を常に受けている。

地球からイスカンダルへ向かう宇宙戦艦ヤマトは、常に地球の重力やイスカンダルの重力の影響を受けている。

あまりに遠すぎるので遠くの星の重力を感じることはできないけれど、自分の肉体は常にいろいろな天体の重力の影響下にあるのだ。

「重力は常にある」そういうふうに認識が変わる。

人間の五感は眼球とか鼓膜とか味覚とか、光学的だったり音響学的だったり化学的だったり、そういうなにか物理的な変換によって認知するようにできている。

そしてその認知は結局のところすべてが錯覚でしかない。

それじゃあ錯覚とはなんなのだろう?

そう考えると言葉の意味も変わってくる。

「それはキミの錯覚だよ」

そういうふうに言われることがある。

けれどもそういっている相手の認識も実は錯覚でしかない。

錯覚をつかってしかいろいろなことを認知することしかできないのだ。

それを認めて世の中をもう一度見回してみると、けっこう違ういろいろな受け止め方が自分の中に産まれてくる。

 

読書メモ





先月読んだ本とか聞いたオーディブルとかです。

30代の頃は松下幸之助さんの本を読んだり戦後のいろいろな成功譚を聞くたびに「そういうなにもない時代と違って平成はなにもかもあるからなぁ」なんて斜に構えていたりしていました。

けれどもそうではないのだな、コロナショックや株価の暴落や社会のいろいろな変化に立ち会うにつれて、チャンスはいつの時代にも転がっているのだと思えるようになってきました。

とはいえ逆風といえば逆風ですが、無風状態よりもおもしろいのではないかと思ったりもしています。

戦後の混乱期に生まれた企業が大きく育ったように、今この時期だからこそ変われる気がするのです。

ジュラ紀の哺乳類のように弱々しく小さな動物がその後の環境変化を生き残ることができたように、大きな環境の変化が起きるときは身体が小さいというのはやはりメリットだと思います。

85歳まで現役でいようと考えるなら、残り30年以上もあります。

20代でビジネスを初めて50代で一山当てる、そういうふうに考えるとなんとなくワクワクしてくるのですよ。

もう一度いろいろなことにチャレンジすることができる、そんなことを考える週末の土曜日なのでした。

 

 

 

 

パンデミックな映画

ブログの更新 八日目です。
八日目の蝉という映画がありましたね。

それはそれとして先日「ラスト・デイズ」といフランス映画を見ました。

建物の外に出ると死んでしまうという正体不明の奇病が蔓延して、文明は崩壊。

なぜか生まれた子どもたちは病気になってなくてよかったねという、ストーリーなんですけれども。

今こそ世界ではパンデミックで大騒ぎなんですけれども、ここまで大騒ぎになってしまうのは映画やテレビ番組の影響もあるのかなと思います。

今まで見たことのあるパンデミック系の映画



けっこうたくさんあります。

今回のコロナウイルスは映画に出てき人類が滅亡してしまうような毒性はないのですが、経済的にはかなりきついところがありますね。

 

早いところ収まってほしいものです。

寄り添うツイッターを読みました。

いろいろ考えるところがあって、会社のツイッターアカウントをなんとかせねばならんなぁと思いついたときにちょうどタイミングよくキングジム公式さんの書籍が発売されていたのでキンドルで即購入したのです。

タイトルは「寄り添うツイッター

キングジムの社長さんはキングジム公式アカウントさんよりも先に個人アカウントで◯◯についてコミュニケーションしていたとか、最初に社長にツイッターをしろと言われたときの気持ちとか書かれています。

弊社を含め業務命令などでツイッターアカウントを登録したものの使い方がわからずに放置していた、そういう中の人も多いと思います。

「企業アカウントはこんなふうに運用するといいのでは?」というキングジムさんの経験からくる言葉がいくつも書かれており、自分も参考にして取り合えずフォロワー100人を目指して気長に運用していこうと思いました。

とりあえず100日連続で毎日ツイッターを投稿することがひとまずの目標です。

 

これから先のことを思いつくままに書き出してみる。

6日目の更新です。

今日は仕事休みの日なので朝の時間に書いています。

さて昨日のブログではバーチャルトライブなんていうことを書いてみましたけど、じゃあこれから先80年後くらい、つまり自分の孫が親になることはどんな感じに社会が変わっているのか、自分なりに感じていることを書き出してみようと思います。

人々の国家間の移動はさらに簡単になっている。

 

家族のカタチが変わる

お父さんが二人いるとかお母さんが三人いるとか。

6歳まで育ててくれたジョンとケンシロウ、13まではユリコ、サチ、18まではミナとジョンが育ててくれた。みんな私の両親。

地域やトライブ単位での子育てが標準になる。

だからといって血縁にこだわる人もいなくなるわけではない。

古い考えというわけではないが男系主義による家族関係も存続している。

感染症の検疫や隔離政策は街や都市単位で行われるようになってる。

ウェラブルな健康管理アイテムによって町や都市単位で病理データが蓄積され医療に関する情報共有がされるようになってる。

罹患情報の異常値があればすぐに明確になる。

健康データが地域単位でデータ化されて、例えばアウトブレイクが起こったき素早く地域単位で対応できるようになってる。

人々の知識水準が上がっているので数理的に物事を合理的に判断できるようになってる(もちろんすべての地域がそうだとはいえないが、いわゆる先進国と呼ばれるレベルにある地域に属する人はそうなっていてほしい)

感染症は人類にとっての脅威ではあるが、「国家単位」での対応では誤謬におちいりがちなので新しい政治形態に変わっている。

ナショナリズムからパトリオッティズム(郷土主義)あるいはトライビズム(部族主義)の時代に

国家というコミュニティの重要性はさほど高くなくなって、郷土愛や地域コミュニティーの重要性が高くなる。

地域スポーツが盛り上がる。地域ごとのチームが盛り上がりの中心になる。

一方でグローバリズムも人々の心の大部分をしめる。

一つの主義に固執するのではなく、個人個人の趣向や住んでいる場所、経験によって多くの主義を複合的に使い分けるようになる。

バーチャルなコミュニティーが国家化する

コミュニティーの母体になるのはアカウント単位でまとまるwebサービスが担うようになる。

かといってナショナリズムが消えてなくなるわけではなく個人的にそれが更に強まる傾向になる個人も少数派ではあるが存在する。

会社は短期的なグループとしてのつながりになる

経営理念、つまりどういうことで貢献できるかがそれぞれの企業でより明確になる。

貢献のレベルや規模によって大きくなったり小さくなったりする。

複数の会社に所属するのが多数派になる

 

20世紀に始まった「近代国家」という仕組みは21世紀半ばには情報化社会では単に足かせとなり郡部・地域に根ざした扶助公助が充実するようになる。

またバーチャルなコミュニティでの公助も更に充実するようになる。

 

旅をしたい、もっといろいろな場所にいってみたい、たくさんの人と交わりたい、好奇心をおさえこむことは不可能だと思う。

小さなコミュニティーでは独裁者は生まれにくい。もしかしたら宗教における教祖のような独裁者は生まれるかもしれないが、何百万人もが無条件に従うようなコミュニティーは少なくなっていく、あるいは存在できなくなるのではないだろうか?

2050年にはたぶん今の社会保障とは全く違った相互依存の仕組みができてる。

そんなふうなことを考えている。

 

Virtual Tribe ばーちゃる・とらいぶ

ネコを崇めよ

更新5日目です。

さて、昨日すこしふれた「Virtual Tribe」バーチャル・トライブという言葉。

そんなにむずかしくないです。インターネットを通じた人とひととのつながりが部族社会のように形成される。というだけの話です。

ツイッターの世界では割とよくある現象だと思います。

例えば

「おじいちゃんの方眼ノート」量産化で喜びの声

頼りになるのがご近所さんや血縁者ではなく、ネットでのつながりのある人々ということです。

今までは地縁であったり、血縁であったり、会社の繋がりだったりしたものに、インターネットでのバーチャルなつながりがオフラインに影響を持つようになったということ。

ちょっとうまくまとまらないので思いついたことを箇条書きにしていきます。

国とか地方自治体のかわりにインターネットを介したつながりがセーフティーネットととして有効になっていくということ。

アカウントがあることで相互扶助が期待できるようになるということ。

次の独裁者(ヒトラーやスターリンのような)は近代国家からは生まれないのではないかということ。

広い意味での独裁者は、一人の人物としては成立しないのではないかということ。

バーチャルな人格としての独裁者はいるのかも。

例えばフェイスブックのザッカーバーグさんや、ツイッターのジャック・ドーシーさん、グーグルのピチャイさんやアマゾンのペゾスさんは独裁者かといえるかと考えるとちょっと違うように感じる。

でもフェイスブック共和国やグーグル帝国のルールを守らなければBANされてしまう。

多分代表者の悪口を言っても、BANされることはないかもしれないけれども、それぞれの所属するコミュニティーの規律から外れた行為をするとアカウントが抹消されてしまうのだ。

これから先、僕はいろいろなアカウントを持つと思う。

今はグーグル、アップル、アマゾン、ノート、ツイッター、いろいろなアカウントを持つことで、それぞれのコミュニティーに所属している。

どのアカウントもなくなってしまうと、かなり不便になりそうだが、分散することで、例えばグーグルのアカウントがなくなったとしてもとりあえずなんとかなるとは思う。とりあえずBANされるようなことはしないつもりですけど。

いろいろなコミュニティに属するということといろいろなアカウントを持つということは、自分の中では同意なイメージを持っている。

それぞれのコミュニティーはそれぞれの目的やルール、ふるまいであるとか、どのような言葉をつかうのか、猫が好きとか、、犬が好きとか、犬も猫も好きだ、亀がとにかく好き、いろいろな価値観で繋がっていく。

もし自分のアカウントのフォロワーが3万人くらいいれば、その人は3万人規模の小さな町の町長さんくらいの利益をえることができるようになる。

ある意味、独裁者になれる。

バーチャルな独裁者がそれこそごまんと生まれる時代が来ているのだと思う。

 

 

 

 

ゴールは?

21世紀は感染症とどうつきあっていくのが正しいのだろうか?ってなことを考えてみる。

天然痘を撲滅したように、インフルエンザウイルスやコロナウイルス、あるいはアデノウイルスやライノウイルスなどいわゆる”季節性感冒”、”カゼ”を撲滅できるのか。

ウイルス系の風邪はどうも撲滅したり100%防ぐというのは無理筋のようで、難しいみたいだ。

そういうことだから、パンデミックは起きるときは起きる、それは受け入れないといけない。

ただ各国で「医療崩壊」が起きてしまわないようにする公衆衛生や病気に対する知識武装であるとか予防習慣なんかをしっかりと行う必要があるのだろうなとは思う。

今回のコロナウイルスは、どうもそれほど恐ろしいウイルスではないように個人的には思う。
インフルエンザに比べると症状も軽そうだし、毎年、けっこうな人数が肺炎でお亡くなりになっているのはいろいろなデータを見ればわかることだ。

それにも関わらず、ニュースなどを見るといろいろな国でパニックになっている。

この分だと世界恐慌のスイッチが入っちゃたんだろうなとしか言いようがない。

いろいろな書物で書かれてる。

スペイン風邪と世界恐慌など、技術革新と疫病は世界史のなかで切ってもきれない事柄というのは有名な話。

これからの5年間でかなりいろいろなことが変わると思います。

とりあえず個人的に気になるキーワードとして

Virtual Tribe(事実上の俺ら)というのを思いつきました。

Tribeは「部族」「民族」「エスニック集団」「同族」と日本語では言われるのですけれども、日本語ではピンとくる訳がないような気がします。

「郷のモノ」「同郷者」とか、そういう意味合いも含まれています。

Virtualは「仮の」とか「仮想の」という訳語をあてては絶対いけません。

「事実上の」「実際の」という意味ですね。

「バーチャルトライブ」については、明日以降書いていこうと思います。

 

三日目の更新でした。

日曜日の朝です。

朝食を食べ終えて、歯磨きして顔を洗って着替えて、ちょっと部屋に掃除機をかけて、今ブログを書いているところです。

マイクロソフトアカウントで家のPCを起動してグーグルアカウントでクロームにログイン。

これで会社のPCと同じ環境でブログを書き込みできます。

インターネットの登場で情報のバックアップや動機がすごく楽になりました。

本当に楽になりました。1980年代の同期といえばブリーフケースくらいしか方法がありませんでした。

ブリーフケース便利だったのか?

あまり便利じゃなかったような気がします。容量も少ないし、パソコンそのものを同期するというものではなく、データやファイルを同期するというか、アナログなgitというか、非常に使いづらかった記憶があります。

さっき調べてみたらWin7までは搭載されていたんですね、ということはけっこう使う人が多かったのでしょうか?

Win10で使いたいという人もいたりすので使い方しだいなのかもしれません。

「データを人に渡す」というときに、フロッピーディスク(今の若い人はしらないかもしれません)にコピーして手渡すのと、クラウドにアップして共有するのとでは、仕事の進め方や仕組みを変えたほうがいいと思います。

あのころはリモートワークやテレワークは本当に大変だったしお金もかかりましたが、今は工夫すればスマートフォン一台あれば可能です。

実際、今のスマートフォンの性能は当時のパソコンの機能を遥かに凌駕しています。

休日の過ごし方も変わってくるし仕事のオンオフの線引も曖昧になってくる、ますます時給換算できないことが増えてくるのだと思います。

まとめ

新しい技術を使うことで仕事の組み立てや進め方を変えることができる。

ITは現在している仕事の効率を変えるのではなく、仕事そのものを変えるために使うのが正しい、のかなと思っています。

 

ということで、三日目の更新でした。

 

 

リスク管理

3月の頭に東京で行なわれる展示会を見るために出張する予定を入れているのだけれども、やめた方がいいのだろうか?

自分としては、今の状況ってなんとなく過剰反応な気もしないではないのだけれども。

不要不急な外出は避けた方が良いということで政府も声明を出したようだし、中止にするのが正解のような気もする。

今だったらキャンセル料もそんなにしないし、さてさて。

展示会そのものが中止になるということもあり得なくはない。

そうなったら出張する意味も無くなってしまうわけですし。

拡散を抑えるために個人個人が気をつけること、やれること、対策は打っておくべきんんだろうな、とは思う。

で、この状態が続くのはやっぱり景気を押し下げてしまうのだろうなぁと感じる。

多くの人々が自粛することで、かなりの金額が回らなくなるっていうことだよね。

けっこう売上に影響がでてきている企業も増えてきただろうし。

観光業界だけの問題では無くなってきているということだよね。

水際対策と山の向こうと海の向こう

なんでもニンテンドーのスイッチが部品が入ってこないとかで出荷が遅れるというニュースがあったりして、

なんというか、もう世界は引き離すことができないくらいつながっちゃってる感がつよい。

鎖国政策というのはなんか向かないのではないか。

人の移動をしないというのは大事だけれどなんか、人がいなくても流通とかいろいろなところで影響がでてる。

これは病気とかパンデミック的なことだけじゃなくて。

台風とか地震とかそういう災害も同じ。

山の向こうや海の彼方で起きた災害が、自分たちの暮らしに何らかの影響を受ける世界に僕は生きている。

水際対策をして自分だけが助ければいいやというのは、もしかしたらちょっと違うのかもしれない。

水際で防ぐのではなく、水際を超えて助け合うことのほうが大事なんじゃないかという気がする。

情報を正しく発信する。

お互いに信頼関係をつくる。

お互いに助け合う。

ヘイトをぶつけない。

知らんぷりをしない。

自分のことは自分で世話をする。

お互いに頼りにする。

自分ができることを精一杯する。

 

 

とりあえず、ちゃんと手を洗う。

予防注射は打つようにする。

咳をするときは手で覆ったり、

風邪を引いたら会社を休んで家で寝ておく。

 

 

そんなとこでしょうか。

情報源: 【独自】「緊急事態宣言見送りで感染拡大」WHOトップ辞任要求、30万人が署名 : 国際 : ニュース : 読売新聞オンライン

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