夏休み

明日から16日までの四日間夏休みで会社はお休みです。

弊社のお客さまは基本的にはプロの業者さん、いわゆる水道設備店さんになります。お客さんも同じように休みですし、仕入れ先もだいたい同じような日程で休みになります。

流通の川上の方にある資材メーカーさんなんかでは先週の8日からすでに休みの会社もあったりして、今年は最大9連休というのが羨ましい企業さんということになります。

弊社も11・12日は休みにする予定でしたが、仕事をするお客さんもけっこういるということで、営業することになりました。

で、本日の業務も残すところ30分くらいになりました。

この時間帯になるとお客さんもすでに後片付けモードに入っているので注文の電話というのはほぼありません。

自分も書類を片付けたり、ちょっとゴミをまとめておいたりして休みの準備をしたり、休み明けの段取りを書き出したりしたところです。

今はこうしてブログを書いておりまして、この文章を書き終えて更新すれば本日の業務もほぼ完了ということになります。

今年は夏休みが短く、また次女に関して言えば来年の高校受験を控え、たくさんの宿題と塾の課題でヒーヒー言っております。

それにしても、今年は夏休みっぽい感じがしないですね。

出かけるにも気が引けてしまいますし、ショッピングというのは不要不急な部分が大きなものですから、とりあえず中止にしたり延期にしたりなりがちですな。

うちの娘はショッピングというか買い物が好きで、好きあらばイオンについれていけだのゆめシティに行くだの言っております。

なんかほとんどコロナとかは気にしていない模様。

手洗いをするとかマスクをするとか人混みは避けるとか、そういう基本的な行動をしていたらまぁコロナとかそう移りはしないのではないかという考えだそうです。

この盆休みの間に家のPC環境をレベルアップして来たるべきリモートワークな時代に対応すべくいろいろやってみる予定なのであります。

とりあえず仕事部屋がルーターの置いてあbpsるリビングルームと距離があって仕方なくPLCを使ってLAN接続しているのだが(電波が届かないのよ)下りが5Mbpsくらいしか出ないので、天井裏に潜って穴を開けたりしようと思ったりもしたのだが、この暑さで死ぬかもしれないので、その作業はもう少し寒くなってからやろうと思った。

一応、下調べで天井裏を覗くくらいはやってみようと思っています。

買うか借りるか

アパートを借りたりするときに家賃はどのくらいなんだろうか?

下関の自分が住んでいるところだと、1DKで3万円くらい。

二人暮らしなら5~6万円くらいの2LDKとか3DKくらいだろうか。

高い一戸建ての借家だと9万円とか10万円という家賃もあるのだ。

月に十万円の家賃だとすると

「それって住宅ローンとか組めば家がかえるのではないか?」と考えてしまう。

住宅ローンで毎月8万円というのはけっこうな金額だ。

月の家賃がそれをこすなら家を買ったほうが安い気がする。

もちろん固定資産税だとかの税金もあるし、何年かに一度は塗装をしたり補修をしなければならなかったりで、経費とか積立のようなものも必要なのはわかる。

自動車にしてもリースするのがいいか所有するのがいいのか、それとも必要なときにレンタカーを借りるのがいいのか、いろいろあると思う。

通勤するのに自動車が必要であればレンタカーというのは、逆にコストが高くなるよね。

商品やサービスを購入するのか借りるのか考えるときには、

どのくらいの頻度で利用するのか、

維持費はどのくらいかかるのか、

得られる満足や快感はどれほどのものか、

どの程度安心をえることができるのか、

利益をどのくらい生むことができるのか、

そんな諸々のことを考えて、その商品だかサービスだかが、どのくらいの耐用年数があるのか、というのを計算して買うか借りるか判断する。

人はまぁとりあえずは論理的な基礎判断をしているつもりであっても感情に流されてしまう部分が多い。

そんでもって、今現在や戦時中のようになんらかの変化の真っ最中だったりするとあんまり長いスパンでの利用というのは、計画通りに進まないように思う。

長くて5年、実際は3年半くらいが耐用年数ということを考える。

42ヶ月で、元が取れたなと思うことができるか、なのかなと思う。

「このサービスに対してだったら月5000円ぐらい払ってもいいかな。」

と思った時、5000円✕42ヶ月=21万円ととりあえずの金額をけいさんして、

じゃあ今買ったら、30万円だとか、12万円だとかで、買ったほうが得だなとか損だな、と思うわけです。

それを所有したり利用したりすることで付加価値を生み出したり、誰かの役にたちたいと考えることで、また新たな価値が生まれたりもする。

時間を節約することができるとか、気持ち的に前向きに慣れるとか、具体期なメリットはなんなのかなどだ。

会社のトラックを買い換えるときも、いろいろ考えるのだ。

135点と147点

昨日一昨日はゴルフに行きました。

それぞれ違うゴルフ場でした。

土曜日はアウト68イン67で135点

日曜日はアウト75イン72で147点

うーむ、我ながら酷いスコアですな。

ここしばらくは120点台だったんですけれども、日頃の練習不足と体重が増えたせいかもしれません。

まぁそれほど向上心があるわけでないので、そもそも練習していないです。

素振りもしていないので、そりゃ技術が向上するわけないですな。

 

でも、下手の横好きというか、けっこう楽しんでやれてると思います。

ドライバーとかバシッと打てるとやっぱり気持ちがいいですし、たまーにバーディとかとったりするとやっぱり嬉しかったりするのですよ。

ロングパットが入ったりとかね。

上達したらもっと面白くなるような気がします。

でも練習する時間があれば他のことするなぁという気持ちの方が強かったりする。要は優先順位がそれほど高くないんだよな。

でも、あんまり酷いスコアだと一同伴者に若干迷惑がかかるような気がしないでもない、というか申し訳ない気持ちというか、そういう思いも若干あります。

 

なんというか基本的な体力不足というか体幹のタフネスとか筋力不足な要素が強いかもしれない。

疲れてくるとショットが安定していない感じを覚えています。

二日目は筋肉痛とかも少しあり、なんというかスタミナ不足というか、打つときにふらついている感覚がずっとありました。

基礎体力が落ちてるのだなぁと感じます。

ショットの様子を動画に残すとあとから分析できそうな気もします。

打ちっぱなしにいって動画でいろいろ角度を変えて観察するのもやってみたほうがいいのかもしれない。

とりあえず明日は休暇日なのでちょっと練習しにいってみようかと思っています。

 

勉強が面白くなる量

50年以上生きてきて、やっと「勉強が面白いな」とか「勉強は大切」と思えるようになってきました。

もっと勉強しておけばよかったな、と毎日思うことがありますし、まだまだ勉強が足りないなと感じることも日々起こるわけです。

子供の頃は「どうして勉強しないといけないのか?」なんてことを毎日のように思っていました。

だって面白くないですからね、浦賀にペリーがやって来ようが、さいんこさいたんじぇんとで、ぱわーとぅーざぴーぽーなわけですよ。

つまりは意味不明っていうことでした。

でも50年生きてやっとわかってきましたよ。やっぱり勉強は大事だし、しかも面白いということになんとか気がついたわけです。

多くの大人たちがこどもに対して「勉強は大事だよ」っていうのは「勉強が大事だ」っていうことを「勉強すること」を通して実感として手に入れたからですよ。

そして、自分の知識不足であるとか重ねた失敗であるとか間違えた選択による結果の不満足さなどから、こうつぶやくわけです。

「もっと勉強しておけばよかった」とね。

で、ふと思ったんです。

「勉強は大事だ」「勉強するって面白い」と考えることができるようになるためには、ある程度の勉強の量が必要なのではないかと。

「勉強を面白く感じる能力」を手に入れるためにはある程度の勉強の量が必要なことに気がつくのです。

中学生のころ成績の良かった彼や彼女たちは、14歳位にして「勉強を面白く感じる能力」を手に入れていたのだなと思うのです。

つまり偏差値が65以上の中学高校生は、すでにその力を持っているわけです。

で、この力を手に入れるためには、個人差はアレどある程度の勉強の量というか基礎知識と言うか教養が必要なんではないかと考えるわけです。

それは読書量であるとか、解いた問題集の数であるとか、覚えた単語の数であるとか、方程式の量があって、それらの一定ラインを超えると、勉強がある日突然面白くなるわけです。

でもそのラインを超えるためには

ある程度の勉強量が必要なわけです。

おとなになっても日々の仕事の中で覚えることがあったり学ぶことがあったりすると、ある日突然その勉強量のラインを超える日がくるわけです。

そうすると「勉強すること」がけっこう楽しくなってくる、いわゆる知的欲求を満たすための勉強が楽しくなってくるポイントが現れるわけです。

でも勉強していなかったり、日々「学ぶ」というような生活を営んでいないと70歳とか80歳になっても勉強は面白くないままなわけですよ。

勉強していないとバカはバカなままなわけですよ。

いい大人なのに「勉強なんてしなくてもいいよ」なんて言ってしまう大人は勉強の総量が圧倒的に少ないわけです。

いわゆる「賢い中学生」の勉強量の累積よりも「勉強嫌いな70歳」の勉強の累積のほうが少ないわけです。

中学受験とかしている子どもでいわゆる中学生にして微分積分がわかるとか水滸伝や三国志を読んだりするような子どもというのは、今の自分の50年分の累積勉強量よりもたくさんの学習を重ねていわけですよ。

学習と言っても教科書を読むとか、本を読むとか、そういうことだけでなく、日々世界に対して興味をいだいて「なぜなんだろう?」「どうしてなんだろう」と考える、その思考過程そのものの違いが、すなわち勉強量の違いになるわけですよ。

もちろん生まれたときから脳の性能が違うという遺伝的な要因もでかいとは思うのですけれども、50歳過ぎてでも勉強を重ねていくことでそれなりに楽しい人生を過ごせるのではないかなと思ったりもしています。

 

でもまぁ賢い小学生とか中学生とか、やっぱり違いますよね。

自分が50年かかってやっと感じるようになった勉強の楽しさというようなことが15歳くらいですでに身についているわけですよ。

そしてその片鱗は多分小学生になる前くらいには現れているのであろうと思います。

で、仮にタイムマシンで小学生の頃の自分に対して「勉強は大事だし面白いよ」って直接伝えても、まぁ自分は勉強しないでしょうね。

まだ道の途中だからなんとも言えませんですけれども、勉強するのに「遅い」というこてはないと思うのですよ。

50になっても60になっても80になっても「勉強するのに遅い」ということはないのではないかなということです。

「勉強する」というのはちと違うか、

「新しいことを身につける」そのためにやったことがないこと、苦手なことに挑戦するというのを「勉強すること」と定義し直してみましょう。

いくつになっても挑戦するというのが、すなわち勉強するという意味だと考えて日々いろいろなことに挑戦するのがいいのかなと思ったりしています。

100歳まで生きる、そして働くのかなと考えると、50歳にとって、の頃の50年というのはかなり長い人生だと思います。

100日目

「とりあえず100日続けますよ」ということで、今日でなんとか100日続きました。

ただ書いているだけなのであまり変化はないですけれども、とりあえず書かないといけないなあぁというよりは、毎日書くという習慣にはなったような気がします。

何年か前に別のブログを書いていたのですが、PHPのバージョンの関係で上手に移行することができず、過去ログに全くアクセスできないということもあって、しばらく更新していなかったんですよね。

ブログを書くわけですけれども、その日一日あったことや感じたことなどを書いているだけなので、情報発信しているという意識はほぼありませんでした。

会社をやっているときにとにかく考えたことや心がけたことを、何年かあとに初心に戻るためとかあるいは自分の道なりを見返すのに、ブログや日記は役に立つように思います。

ネットに公開しているわけではないのですが、日誌は毎日つけています。

去年の今頃はどうだったかな?とか、過去の次月の予定はどんなふうに組み立てていたっけ?というような使い方もしています。

そうすることで、そろそろあれをしておいたほうがいいなとか、これに取り掛かるようにしようみたいな、そういう備忘録としても活かすことができるわけです。

ただ今年みたいな社会状況がけっこうな規模で変わっていたりすると、参考にできないことがほとんどです。

去年はこうしていたけれど、今年は難しいなぁとか、そういう感じ。

でも、日誌を付けていなければそういうことにも気が付かないわけで、自分自身を客観的に眺めるのにも役立っているような気がします。

さて今日からまた100日後といえば夏が終わる頃ですね。

子どもたちの夏休みも短いようですし、去年までとは違った夏になりそうなことは間違いないです。

秋を前に、下関の景気はどうなっているでしょうか?

下関市はインバウンドの観光マーケットにそれなりに力を入れていました。

唐戸市場や水族館のあるあるかぽーと地区は、中国・台湾・韓国からの旅行客で賑わっていたのですが、今はほぼゼロとなっています。

年内は海外からの来客はまずないと考えるのが正しい前提になります。

つまり観光系や旅行系の売上は、年が明けてもこの何年かの平均売上の半分もないというところでしょう。

売上が半分になると、普通の経営であれば立ち行かなくなるわけで、新しい顧客を見つけたり、ビジネスの組み立ても変えなくてはやっていけません。

コロナ騒動の100日でしたが、現時点で新しいことをはじめていなければ、これから100日もほぼ状況は変わらないと思います。

政府の援助も期待しないほうが正解だと思います。

「なんとかしてくれ」って頼んでも、まぁなるようにしかならない。

今後は気候変動とか、もしかしたら大地震がくるかもしれないし、台風の被害もやっぱりあるでしょう。それは間違いなくありますよ。

そう考えて仕事のありかたとかやり方を変えていかないと、やっぱりどうにもならない、つまりは廃業するなり精算するなりの舵取りも必要になってくる。

来年のオリンピックも個人的には開催されないか、開催されたとしてもまったく違う形での運営になるはずです。

というか、同じ形で運営されると、かえって時代の変化についていけない社会構造がそのまま維持されてしまって、世界の変化に取り残されてしまう度合いがますます大きくなってしまうのではないでしょうか?

以前のやり方に戻そうとするのは、未来に続く道ではないように思います。

情報発信とプライバシー

自分でウェブサイトを運営したりtwitterに投稿したりして情報発信していると、どこまでプライバシーを確立するのかというのはけっこうな課題です。

本人のネットスキルや経験・考え方など様々な要素によってどこからどこまでの情報なら公開していいのかは、けっこう幅があります。

本名を公開する公開しない。というのも人によって立ち位置が違いますし、他にも自分の顔写真、住所、連絡先電話番号、ファックス番号、趣味趣向、食事になにを食べたのか、今何をしているのか、スポーツジムに来てます的なツイートをするかしないかなど、人によってこれはOK、あれはNGというのは、明確な基準やルールが有るわけではありません。

個人の中でも以前はOKだったけれども今はNGの情報があり、逆に以前はNGだったけれども今はOKな情報もあるでしょう。

情報発信するときに注意しておきたいのは、

メディア化された情報は、拡散のコントロールをすることはできない。

という点です。

メディア化というのは動画や画像はもちろんテキストデータや音声データも含まれるすべての情報コンテンツのことです。

メディア化したコンテンツは、たとえば、メールでやり取りしたり、電話でやり取りしたりした瞬間に複製と拡散の可能性を帯びます。

メディアというのは「人と人の間にあるもの」のことです。

100%完全にコントロールできない以上、「すべてのコンテンツは拡散する性質を持っている」と考えて発言や行動をするという覚悟を受け入れていないといけません。

「ネットじゃなくて電話だから大丈夫」

「実際合って話すから大丈夫」

そんなことはありません、いくらでも録音できます。今の録音機器はすごいですよ。

「言葉」も立派なメディアの一種ですから。

もう、なんというか隠し事とかできないてちえ、行動するしかないんですよ。

厳しいですな。

非常にたいへんなことであります。

もう開き直るしかないんですよ。

多少の下心とかスケベ心もオープンに話をするしかないです。

自分は聖人君子ではないし、誰もがそうではないのだということも受け入れておく必要があります。

ですからツイッターで「おっぱい!」とか書くのは問題ないのです。

「DMM.comのVRとかすげぇ」とか「Pornhubやばいだろう」とか「DXLIVEエロすぎ」などオープンにしておくことも大事なのです。

なんのこっちゃよくわかりませんが、そういうふうに開き直ってると結構ネットリテラシーも高くなると思います。

けっこう忙しかった

連休があけまして、止まっていた現場も動き始めました。今週の後半くらいからいそがしくなるかなーと思っていたのですが、今日からけっこうバタバタと現場が動き始めました。

おかげさまで、今月はそれなりに現場が動いているのでありがたいことです。

緊急事態宣言もなんとかこのあたりは解除されそうな雰囲気ですよ。

実際、緊急事態と言っても東京や福岡のような大都会とちがって、あまり危機感がないような気がします。

身近な人に感染者がいるとか、知り合いが入院しているということがないので、そんなに気にならないというか、本当に緩んだ感じしかしなくて申し訳なく思います。

コロナショックと言われた世界同時株安からだいたい二ヶ月くらいが過ぎたのですが、ここに来て倒産とか店じまいの話がネット上でちらほらと見られるようになっているのですが、自分の知り合いの経営者の人は、なんとか頑張って踏みとどまっています。

弱音をはいていないでやせ我慢しているだけなのかもしれませんけれども、本当に頑張っていると思うんですよ。

なんとなくこの騒ぎが終わったあとはドカンと消費というか需要が戻ってくると思いますし、この大変さを乗り越えたらなんというか称号というか、本物というかブランドというものが得られると思うのです。

「生き残ったんだからすごくいいお店に違いない!」みたいな評判というか信用が構築されるのではないでしょうか?

「うちは本業で勝負だ!」

「休業中も商品開発を頑張っていたぜ!」

「より品質を上げて復活したぜ!」

みたいな勢いのある本物だけが醸し出す雰囲気というのでしょうか?

自分の商売に信念と情熱と愛情を持って、もうそれが匂い立つというか、お客さんが

「いや、マジで利用できなかったんで、メッチャ参ってた」

「あんたのお店に行けない日々がゴッツ辛かった」

「開くのを楽しみにしてたんよ」

と言ってくれるようなお店が実際生き残ってるんではないでしょうか?

というか生き残って欲しいと思いますよ。

 

本当に必要とされるお店であれば3ヶ月くら店が閉まっていたとしても一ヶ月の売上で三ヶ月分取り返せるくらいの売上があるのではないかという気がします。

 

月に一回行ってたお店にとりあえず週1回、あるいは10日に一回いけばいいわけですよね。

新規顧客でなく常連さんがいつもの3倍お店に行くだけで一ヶ月で取り戻せる、そういうサービスであれば大丈夫なんではないでしょうか?

とりあえず、来月は家族でカラオケに行こうと思いますよ、

 

 

次に同じことがおきたらどうする?

とりあえず自分のGWは今日で終わりです。

明日・明後日お仕事で土日はお休みいただく予定ですよ。

今年の連休はまぁどこに出かけるでもなく家でゆっくりというかダラダラと過ごしておりました。本もあまり読めなかったです。

そのかわり家の掃除とか進みましたな。

で、カレンダーというか暦。

古代エジプトで毎年ナイル川が氾濫するのにカレンダーが役立ったと言うことです。

人間は周期によっていろいろな予測や対策をすることができます。そういう意味では文明社会にとって暦というのは切っても切れない関係なのでしょう。

暦があるから、来年の今頃はこうしよう、とか、3年後にああしようなんて予定を立てられるわけです。

で、地震とか台風というのは、なかなか平準化できない。

毎年必ず起こるし世界全体での合計値を見れば、一定数で予測が可能なんですけれども、被害が局地的なので「それがどこで起きるのか」というのは予測できない。

予測できないから対応するコストがかかるということになります。

カレンダーにしても天気、その日が晴れであるかどうかまでは予測できませんが、平均を取ると、この月は雨が多い、とか、このあたりから雪が積もるなんてことを予測して対応をとることができる。

確率の問題です。

地震も台風も起きる確率はゼロではない、ただ自分の身にふるかかるような災害につながるかどうかはわからない。

住んでいる場所にもよるし、ただ、頻度を考えると耐震構造の家にするとか、暴風の工夫をするとか豪雨に備えるとか、リスクに見合ったコストを掛けて、実際にそれがおきたことに対処し、工夫するのが人という生き物だと思います。

 

感染症にしてもワクチンを作ったり、公衆衛生の知識を高めたり行動を変えることで、次に備えるということはできる。

 

肝心なのは「次に同じことがおきたときにどう対応するのが正解なのか?」

そのことがある程度わかるのに1年2年では短いということです。

最低でも10年、同じような感染症が何度かおきて、そのたびにいろいろな対応をとってどのやり方が正しかったのか、どのやり方が間違っていたのか、いろいろな答え合わせをしていかなければいけない。

今日は「正解だ」とされている手法が半年後には「間違いだった」ということになり、さらに5年後には「やはりあのやり方が正解だった」ということになることもたくさん見られると思います。

正解にたどり着くためには一世代分の知識や行動の更新が必要なのではないかと思います。だから25年から50年くらいかけて、次の正解を見つける時代になるのだろうと思っています。

「まぁなるようになる」

諦めに似ているかもしれませんが、けして諦めているわけではないです。

たぶん、孫の世代から「うちのじいちゃんはアホなことしてたな」と笑われるような失敗もたくさんするのでしょう。

でも「その失敗があったこらこそ今の自分達がいる。」そんなふうに孫たちが話している未来を想像するのは案外いいものです。

 

「そんな先のことよりも、今とにかくなんとかしないと」そういう困っている状況もある。

なんというか頭に銃を突きつけられて「AかBかどっちか選べ」みたいな状況もある。

もしくは「Bしか選べない」とか。

「とにかく選択肢がないんだ」と。

 

でも自戒を込めて言いたい

「選択肢がないのは自分の知識不足が原因」

知っておくべきこと、やるべきこと、やっておくべきだったこと、だからこそ自分を救うのは自分でしかないのだと、覚悟を決めること。

 

子供に「どうして勉強しないといけないの?」そういう質問をされたときに、

「人生の選択肢を増やすためだよ」という返しをしています。

「勉強しないと選択肢がどんどんなくなっていくんだ」それは確かに自分自身の実感であり反省でもあります。

「もっと勉強しておくんだった」と思うのは選択肢があまりないときです。

これから先の時代は「選択の機会」「決断の機会」がこれまでの時代よりも増えると思います。

選択や決断するときに役立つのは、知識と経験です。

今は知識と経験を増やす時期なんだくらいに考えて、あたらしい生き方のカレンダーや地図を作ってる最中なんだと考える。

新しいカレンダーが必要で、

それを作っていくのは自分であなたで他の人々で、

そのためにネットをうまいこと使って、知恵を合わせて、うまいことやっていくしかないと思いますよ。

変わったのは世界ではなく「自分の見方」と「自分の感じ方」なのだと思います。

春の陽気になか、家の中から窓の外を見るとき、ひばりの声が聞こえたり、風が入ってきたり、鼻がムズムズしたりするのを体感すると、世界はいつもどおりなんだなと思います。

人生は長い、変化を楽しもう、まずは何を始めよう?

そうやって新しい日常を楽しんでいこうと思います。

来年どうなってるか予想することはできません、状況がもっと悪化しているかもしれない。

けれども10年後20年後は、たぶん良くなっていると思います。

それは信念です。

未来を作るのは予想ではなく信念なのだから。

信念がありゃなんとかなります。

もちろんそれを突き通すために正しい知識や戦略が必要なんで、使えるものは全部使いましょう。

 

なんか図書館は使えるようになるみたいですし。

 

あと地上波TVは見なくていいと思います。とくにワイドショーとか。

トフラー先生の本

「富の未来」原題は”Revolutionary Wealth”だから「未来」というのとは、ちょっとニュアンスが違う。

「革命的な豊かさ」とか「画期的な富」とかそういう意味。

日本語版が出版されたのが2006年。

なんと15年近く前だ。

トフラー先生が亡くなったのが2016年。

この連休はこの本を久々に読み返そうと思います。

なんか違うというところもあるかもしれないし、そこから見える未来もあるように思える。

先生が広めた概念で「情報オーバーロード」というのがある。

人間は処理しきれないほどたくさんの情報にさらされると、かえって判断力が鈍ってバカになってしまうよという警告だ。

SNSは本当に情報過多で、自分自身がどんどんバカになっていくような気分になってくる。

だから連休はアクセスしないようにして、あえて本を読んだり、庭でバーベキューをしたりして、ネットから距離をおいて行こうと思う。

ちなみに明日まで仕事です。

世間はゴールデンウイークで、いろいろなお店が自粛して休業しておりますが、弊社はほぼ通常運転で、なんだか申し訳ない気持ちです。

コロナ騒ぎでやっぱり不安なのかツイッターとかフェイスブックとか見る時間が増えているので「こりゃいかんな、他にやることを設定しなくてはいかん」なんてふうに思うのですよ。

未来の衝撃も合わせて読んでみたいなと思っています。

 

 


クレクレ星人にならないように気をつけたい

「今月は決算なので助けてください」

「数字が足らないのでなんとかしてくれませんか」

「売上ノルマがキツいので協力してください」

と仕入先の営業マンからお願いされることがよくある。

とりあえず、笑顔で「まぁいいよ」とか「わかったよ、なんか強力しよう」と答えるし、実際に注文をいれることもあるんだけど、根っこの気持ちとしては

「知らんがな」

というのが正直なところである。

仕入先やお客様とは持ちつ持たれつだから、お互いにムリを聞いたり助け合ったりすることも必要だとは思う。

けれども相手を尊重しているかどうかが大事だ。

「この前たすけてもらったから、今度はうちが助ける番ですよ」というのは、ほぼないと思ってる。

こちらが注文するときは、そういうのはほぼ期待していないです。

「助けてください、お願いします、買ってください」というような言い方のときは、お客様のことなんて1ミリも考えていない。

自分の都合を押し付けているだけなのだ。

自覚があるならまだいい。自覚があれば「買ってくれないなんてなんてひどいやつだ」なんて思ったりしない。

「かってくれないなんてひどい」っていうセリフが思い浮かぶとしたら、それは自分が都合を押し付けている証拠なのだ。

「たすけてください」「なんとかしてください」というときに、だれも助けてくれない、それは自分に責任があるのだと思って反省しなくてはいけないと思う。

というか、「困ってるんです」「マジヤバイかもしれない」というときに、周りの方から「たすけてあげるよ」「なにか力になれることない?」

そう言われるような経営をしとかないといかんのだろうなと、今まさに思う。

すっげー助けてもらってる会社と、なんかぜんぜん反応をもらえていない会社と何が違うのか、岡目八目だとよくわかる。

うちの会社は助けてもらえるだろうか?なんてことは考えるのはよそう。

なんとか自分でするからいいですよ、そういう姿勢を貫いていきたい。

心意気とか覚悟とか、そういうのは経営者だけのものなんだろうとも思う。

もちろん社員一人ひとりがそういうことに共感しているば組織としてはかなり強いのだどうと思う。

けれども、社員や取引先に対して、面と向かってそういうのは願ってはいかんのだろうな、と思う。

「助けてくれ~」「買ってくれ~」「◯◯してくれ~」とういうクレクレ星人にならないように気をつけようと思う。