シン・ゴジラとパンデミック・フルー

思っていることを、思いつくままに書いてちょっと考えを整理していこうと思う。

コロナショックで世界が大変なことになっている。

正体のわからないウイルスで、どう対応するのが正解なのかわからない、終わるのがいつなのかもよくわからない状況。

半年なのか一年なのか、それとも二、三年という長い期間続くのか、実際のところはよくわからない。

どの場合も想定しながら、そのときその時に最善と考えられる手段で対応するしかないのかなと思う。

四月五月には日本もイタリアやイギリスと同じ状況になるかもしれない。

どこか諦観しながらも、とにかくやれることはなんでもやってくという覚悟がだいじなんだろうなと思う。

政府はあんまり当てにしない、のが正解のような気がする。

で、今の状況はシン・ゴジラでいうところの第三形態のゴジラがやってくる直前だと思う。

第二形態のゴジラが去ってなんとなく騒ぎがおちついて株価もちょっと安定しているな、というところ。

来月には第三形態にあたる怪物が暴れまわってたいへんなことになってしまう、みたいな。

で、なにもできないまま、なんとなくコロナウイルスが消えて一時的に日常がまた戻ってくる。

で、落ち着いた頃、今年の冬なのか、来年なのかに第四形態のゴジラがやってくる。

第四形態のゴジラは、多分インフルエンザウイルスなんだろうなと考えている。

コロナウイルスよりももっと毒性が高く感染性も高い。

パンデミック・フルーの本番。

どうすればいいのかって?

まぁなるようにしかならないよね。

スペイン風邪レベルの厄災が来るというのは、予想されていたことだし、なんとなく、来ないんじゃないかなーとゆるく考えていたんだけれども、今回のコロナショックは次に起きるインフルエンザ・パンデミックの予行練習だと思っておいたほうがいい。

スペイン風邪はひどい災厄だった。

犠牲になった人は多かった、戦争も起きた。けれども人類は絶滅したわけではない。

生き残ることだけを考えて、お互いに支え合って、頑張っていこう。

 

 

造成地がバンバンできてる感

下関市はけっこう宅地造成が多いのではないか、住宅の新規着工数もそんなに減っていない。半分になったとか、そういうことはないし、1月は新規着工数は192件だったので、持ち直している。

近所に新しくできた造成地は完成する前に、完売していたということで、新しい家が立ちあがっている。

家は買わないほうがいいという話もあるけれども、あなたが英語は当然として中国語もスペイン語も話せて、1年の2/3は海外に出張しているとか、そういう年収が5000万円以上あるビジネスパーソンであるなら、賃貸のほうがいいかもしれないけれども、生まれた場所・町から一歩も出ることもなく(旅行などは別として)一生を終え、かつ子供や孫も似たような生涯を送るのであれば、やっぱり持ち家のほうがいいと思うのです。

基本的に教養の偏差値が48以下の人は一生を生まれたところで終えると思うんだよね。

もしくはそういう地元の人を相手にローカルな商売をするのであれば、やはり持ち家が正解だと思う。

意識高い系の新しいビジネスがなんたらとか、グローバルでハイスキルで高学歴な人であるなら、やはり田舎を飛び出していくと思うんですよね。

で、今までは、日本であればそういう教養の偏差値の高い人は東大に行ったりしていたんでしょうけど、これからはもしかしたらいきなり世界につながるのであろうかと考えたりもしています。

 

というかスマホでなくタブレット端末でネットにつながるようになれば、状況も変わるのかもしれないなと思ったりもしています。

5G端末でタブレットのシェアが65%くらいになると世の中もっと明るくなるのではないかしら。

 

メディア接触時間を減らそう

SNS

コロナショック以降、明らかにSNSを見る時間が増えている。

なんかついSNS画面を見てしまうのです。

この感覚はあれだ、311の東日本大震災のときの感じに非常に似ている。心が落ち着かなくて刻一刻と変化する状況から目を離せないという、それでいて見たから自分の行動になにかつながるのかといえば、ほとんどつながらない。

ただ、時間だけがダラダラと過ぎていく感じ。

あのときの反省としては、見る時間をコントロールする。

本を読んだり映画を見たりすることに時間を使うようにする。

そうしたほうが絶対にいいと思っています。

あとテレビのニュースとかワイドショーは基本的に見ない。

そうやってメディアに踊らされないように自分をコントロールするほうがいい、と考えております。

とはいえ、ついつい見てしまうのですよ。

今日も結構見てしまいました。

特にPCブラウザでつい見てしまうので、これではいかんなということで、一時的にサイトブロックの拡張機能を使ってフェイスブックとツイッターを一時的に見られなくします、っていうかしました。

スマホとタブレットは見られるようになっていますが、こちらもスクリーンタイムを使って1日あたりの使用時間を20分程度に設定しています。

本を読んだり映画を見たり、人と話をするのに時間を使おうと思いますよ。

何よりも自分自身と向き合う時間を大切にしていなかったので、意識して行動しないといけないなと反省。

ハッピー・デス・デイ

同じ日を何度も繰り返すという映画はけっこう多いですよね。

いわゆる「ループもの」と呼ばれるジャンルで、「時をかける少女」「打ち上げ花火、下から見るか横から見るか」「バタフライ・エフェクト」「オール・ユー・ニード・イズ・キル」「8ミニッツ」「リピーティッド」「トライアングル」「loop」

それはもうたくさんありますよ。

それだけ「あのときに戻れたらやり直したい」という感情は共感を生みやすいのだろうなと思います。

今回も、二ヶ月前に戻れたら株を全部売っていたのに、くはぁどうしよ~という方も多いのではないかと思ったりします。

でもまぁ、映画みたいにはなりません。

現実は、時間を巻き戻すことなんてできないのですよ。

そうはいっても、なんとかやり直したいなと思う。

せめてこれから先は、いい生き方をしたいなと思うのですよ。

 

この映画の中で、最初に主人公が目覚める部屋のドアに、あるメッセージが書かれています。

”Today is the first day of the rest of your life.”

今日は残された人生の最初の日。

 

100日後に死ぬ人にとっては、毎日が残された人生の最初の日なわけです。

一応ホラー映画ですけど、あまりこわくありません。

ホラーテイストのコメディだと思います。

面白かったです。

今日はゴルフしました。

少人数の場合は、いいのだろうと思いましたが、それでもお客さんはいつもより少ないですね。

例年ならばもっと人が多いような気がします。

スコアはさっぱりでした。139点。いきなり最初のホールで18叩いたのはもうなんだか心が折れましたよ。OB3回続けて打つと辛いですな。

とりあえずパーが一回あったのでまあよしとしましょう。そんな心持ちだから上達しないのですけどね。

臭いものには蓋をすればいい…ものでもない。

防臭弁

「臭いものに蓋」ということわざがある。江戸いろはかるたの一つ。

これは「根本的な解決を図らずに、一時しのぎの手段で他人にしられないようにする」という意味で、批判的な表現につかう。

一旦は収まるかもしれませんが、あとにまわすことで結局は大きな失敗につながる。

その場しのぎとか、口先でなんとかごまかしたり、そういうのはやはり良くない。

でもまぁ、そういう正論は誰にだって言えるわけで、かっちょいいことを書くほどの人間ではないのですよ。

言い訳したりとか、自分をごまかしたりとかして、炭水化物を食べたり禁煙を中断したりするわけです。

先月風邪を引いてしまったので筋トレも中断してしまっております。やらないといけませんね。

それにしてもコロナウイルスの感染が止まりませんね。

ヨーロッパやアメリカでも外出禁止とか移動禁止とか、ほとんど戒厳令下のようなことになっております。

 

日本は収まったというか、もう終わりそうな感じがあるんですけれども、なんとなく第二波というか、もう一発感染者の増加があったりするんではないかと思っていたりします。

特に、都心部、下関みたいな田舎はそう関係ないかもしれないのですが、人口が何百万人もいるような都市は危ないかもしれないとか考えたりしています。

杞憂に終わればいいんですよ、杞憂で「まぁ心配するほどのことじゃなかったねー」って終わるのが一番いいんでしょうね。

 

終わってみないとわからない

初めて経験すること、例えば初めて外国旅行をして、地図もない言葉もわからない、自分の現在地も不確かで、方位もよくわからないし、目的地もどんくらい離れているのかわからない。

そういう状況の中で、リーダー(この人もよくわかっていない)が「あっちだ、いっやこっちだ」とか言うわけですけど、従っても大丈夫かどうかわからないわけですよ。

一応リーダーの曾祖父さんが一〇〇年前にこの町に来たことがあるってことで、その知識を元に判断しているわけなんですが、

その知識古すぎるんじゃない?

ということで、あまり頼りにならないのは、誰がやってもいっしょなのかなという気がします。

自分が下した判断に都合の悪い物証が出てきたとして、くさいものに蓋ではないですが、「見なかったことにしよう」「なかったことにしよう」というのは一番まずい悪手だと思います。

事実に向き合う、その時その問、最善を尽くす。

自分でよく考えて行動するしかないのだなと、そういうことを思うのです。

春分の日

今日は春分の日ですが、弊社は祝日も午前中は営業しており当番社員が二名ほど出社しています。

世間では三連休の一日目という方も多いと思います。

現場作業を祝日に行うお客様はけっこう多いです。

半日だけでしかも配達なしで店頭渡しのサービスなんですが、それなりに売上もあります。

世間はコロナショックで大変なのですが、いまのところ現場は通常通り動いています。

しかーし!

TOTOのウォシュレットが納期未定になるなどで、着工予定が伸びる現場もちらほら見えてきました。

いまのところいつまでに通常通りになります、とは言えない状態なので、4月からは仕事が止まる、売上が減少するというリスクが高まってきました。

資金繰り、資金計画しっかり書き出して早めに対応しておかないといけませんね。

イタリアはコロナウイルスのせいで町中から人の姿が消えているようですが、一刻も早くこの状況が終わってほしいです。

 

「配達」とはなにか?

金子商会のメインの仕事はなにか?

ということを考えるとやはり「配達」がメインであることは間違いないと思う。

現場で工事をしている工務店の職人さんから電話で

「プッシュマスターの継手、オスアダの13を8個とメスアダを4個、それから~・・・」

というような注文があったら、すぐに現場まで配達するわけです。

 

「配達」を辞書で引いてみますと。

郵便物や商品などを指定された宛先へ届けること。

となっています。

「配」という文字には

必要なところにわりあてて供給する。配る

ならぶ。つりあう。対になる。

という意味が。

「達」という文字には

とおる。道が通じる。なしとげる。果たす。とどく。とどける。すぐれる。物事によく通じる。たっし。命令。通知。

などの意味があります。

つまり「配達」は

必要なところに必要なタイミングで「もの」を届けるということですな。

また「配達」を英語でいうと「Delivery」になります。

語源を調べてみますと、

ラテン語 de-(離れて)+libero(解放する)→liber(自由な;放たれた)→louberos(子供)→hlewdh-(人々)が語源。「手元にあるものを放つこと」がこの単語のコアの意味。liberty(自由)と同じ語源をもつ。

ということですな。

デリバリーによく似た言葉でケータリングというのもあります。

catering とは、お客様の指定する元に出向いて食事を配膳、提供するサービスのことで、caterは、料理を調達する、賄う、提供するという意味があります。

デリバリーとはちょっと違いますね。

「配達」の「達」は「達人」の「達」

やはり仕事として「配達」をやるからには「達人」を目指したいものですね。

 

結婚と子育てと働くこと

結婚するかしないかは、個人の自由であるし社員が独身だろうが同棲していようが同性愛者だろうが、働く上ではあまり関係ないです。

ただ子育てっていうと違う。

やはり働くこととの優先順位をどちらに重きを置くのかということです。

昭和の時代は男が会社で働いて女性が子育てと家事を担当するというモデルが一般的だったように思います。

お互いに依存しているという関係で、どうもここ最近はそのような働き方がうまくいってないような印象があります。

結果としての少子化であり原因としても少子化であると、どんどん人口が減っていくし、平均年齢は高くなっていくし、賃金は安くなっていくし、どうするんだよ?というところでしょうな。

働き方改革で働くというのが時給換算ではなく、生み出す価値とか、付加価値そのものの質や量が大事であって、時間を拘束されるから賃金をもらうという、ったっだそれだけのことではあまり稼げない時代になってきたということのようです。

子育ては結果を評価するとか、そういうものではないのかもしれない。

どれだけ時間を投入できるのか、その投入先が育児なのかそれとも仕事なのかということですが、通勤時間であるとか会議であるとか、どう考えても生産性の高くなさそうな事柄に時間を投入するのははばかられるように思います。

なんだかんだで幼少期から中学校を卒業するまでは親である自分は、優先順位の高いのはどちらかといえば育児の方だったような気がします。

思い出して見るに、

自分の今はなき父親(昭和10年生まれ)は、本当に家事をしていなかったような気がします。

洗濯や洗濯物を干したり畳んだり、トイレ掃除をしたりお風呂の浴槽掃除したり、布団を干したり、料理を作ったり、食後の食器を片付けたりは、全くしてませんでした。

うちの母はよく文句をいわなかったなと思うのですが、まぁそういうことが社会的に許されていたところもあったのかなと思います。

もし今、そのころの父と同じようなことをする人がいたらちょっと引かれるのではないかと思います。

とりあえず家事は一通りできるようにしておいたほうがいいですね。

 

応急処置

応急処置

写真は配管から水漏れしたときの応急処置をするための部材です。

大成機工さんのフクロジョイントという部材になります。

災害のときとや給水管の老朽化のときに水の流れを止めることなく漏水補修します。

あれば便利ですけど、なければ修繕箇所の手前から断水して新品の配管にするなどして対処します。

いずれにしても応急処置なので後日配管を新しいものに引き換える必要があります。

何かあったときのために準備していおく、備蓄しておくというのは、何も起きていないときには無駄なように見えます。

例えば、何年間一度も出動していない消防車、一大購入するのに6000万円でした。そろそろ買い換える時期になりました。

一度も利用しなかったのだから、新しく買う必要がない?

そんなことはありません。

火事は必ずおきるのですからやっぱり必要です。

災害は必ず起きる。

今まで災害にあわなかったのは運が良かっただけ。

消防車はやはり必要なのです。

 

 

とはいえ、コスト削減しないと日常業務で注文がもらえなかったり、なんてこともあります。

本当に世の中に必要なサービスであったり商品であるなら、そこまでのコストをかぶせた価格設定をしておくのが本当に誠意のある姿勢なのかもしれません。

まずは税制を改正してほしいですね。

資金の内部留保をしても税金がかからないようにしたらいいのかも。

まぁ、そんなことより内部留保できるくらいしっかり稼がないといけないのですが。

Verified by MonsterInsights